野口光彦
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野口 光彦(のぐち みつひこ、1896年〈明治29年〉2月23日 - 1977年〈昭和52年〉8月6日)は、日本の人形作家。本名は野口 光太郎(のぐち こうたろう)。号は第3代清雲斎、別号に光比古。御所人形製作者として活躍した[1]。
人物
1896年(明治29年)、東京市日本橋に生まれる。実家は祖父の代から人形師であり、父親の第2代清雲斎に師事して第3代を名乗った[1]。
昭和時代の初期、それまで美術品・芸術品として認められてこなかった人形を、芸術の1分野として認めさせようという「人形芸術運動」が起こり、これに乗って野口は1934年(昭和9年)に鹿児島寿蔵・堀柳女・野口三四郎(血縁者ではない)らと共に人形作家グループ「甲戌会」を結成した[2]。
1936年(昭和11年)2月、初めて人形作品が出品可能となった改組第1回帝展(新帝展)に「村童」を出品し初入選を果たした[1]。なお、同じ年には人形作品を評価対象とした第一回総合人形芸術展覧会も開かれており、「甲戌会」メンバーの野口三四郎が最高賞を受賞している[2]。その後も野口(光彦)は数多くの作品を文展・日展に出品し、高い評価を得る[1]。
野口の作品は、幼児を動的に造形したものが多く、伝統的な御所人形の技法の中に写実的な要素を取り入れ、人形を芸術の域に昇華させた先駆的存在として評価されている[1]。作品は埼玉県さいたま市の岩槻人形博物館などに収蔵されている[3]。
1977年(昭和52年)8月6日、肺化膿症と心不全により、東京都文京区内の病院で81歳で死去[1]。
脚注
外部リンク
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