辻村庫太として判事に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 07:14 UTC 版)
その後、大分県大分町に潜伏していたが、明治15年(1882年)に至り、辻村庫太という偽名を称し、大分始審裁判所竹田治安裁判所の雇員に採用される。「辻村庫太」とは、叔父の幼名であった。 翌明治16年(1883年)4月、父と共に本籍地の東京府本所区の区長に対し、平丁が養育してきた上野戦争の孤児・辻村庫太は脱籍者であるという内容虚偽の附籍願を進達するなどし、辻村庫太の戸籍の編成に成功する。 同年12月6日、雇員から裁判所書記に昇任。明治20年(1887年)には判事登用試験に及第し、同年12月24日、判事試補となって、長崎始審裁判所福江治安裁判所に転任する。明治23年(1890年)10月23日には奏任官である判事に昇任した。
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