賈敦頤
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賈 敦頤(か とんい)または賈 敦賾(か とんさく、588年 - 656年)[1]は、唐初の官僚・軍人。字は景遠[2]。本貫は曹州冤句県[3][4]。
経歴
李淵が起兵すると、敦頤は朝散大夫・尚衣直長となり、江淮を招撫した。杜伏威の討伐に参加した。陝東道大行台度支郎中となり、襄州道行台度支郎中に転じ、倉部郎中となった。趙郡王李孝恭が輔公祏を討つのに従い、功により穀州刺史に任じられた。貞観年間、常州刺史・唐州刺史を歴任した。洛州大都督府司馬となり、入朝して司農寺少卿に転じた[2]。滄州刺史として出向した。清廉な統治で知られた。貞観23年(649年)、瀛州刺史に転じた。滹沱河と滱水が連年洪水の被害に悩まされていたことから、敦頤は堤防や堰を建造し、水害をなくした[3][4]。
永徽3年(652年)、敦頤は蒲州刺史となった[2]。永徽5年(654年)、洛州刺史に転じた。豪族の籍外の占田を摘発し、3000頃あまりを貧民に給与した[3][4]。顕慶元年(656年)7月7日、死去した。享年は69[2]。
家族
脚注
伝記資料
参考文献
- 『旧唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00319-2。
- 『新唐書』中華書局、1975年。 ISBN 7-101-00320-6。
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