賈思同とは? わかりやすく解説

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賈思同

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/06 01:40 UTC 版)

賈思同(か しどう、生年不詳 - 540年)は、北魏東魏儒学者官僚は士明。本貫斉郡益都県[1][2]

経歴

賈思伯の弟にあたる。若くして志行にはげみ、経書史書を平素から好んでいた。彭城王国侍郎を初任とした。尚書考功郎・青州別駕などを歴任した。長らくして鎮遠将軍・中散大夫の位を受け、滎陽郡太守として試用された。まもなく正式な太守となった。後に平南将軍・襄州刺史に任じられた[3][4]

529年永安2年)、元顥洛陽に入り、孝荘帝が河内に避難したが、思同は広州刺史の鄭先護とともに元顥に降らなかった。孝荘帝が洛陽に帰ると、思同は営陵県開国男に封じられ、撫軍将軍・給事黄門侍郎・青州大中正となった。さらに給事黄門侍郎を兼ねたまま鎮東将軍・金紫光禄大夫の位を受けた。まもなく車騎大将軍・左光禄大夫の位を加えられた[3][4]

東魏が建てられてに遷った後、思同は黄門侍郎となり、侍中・河南慰労大使を兼ねた。国子祭酒の韓子熙とともに侍講となり、孝静帝に『杜氏春秋』を講義した。国子博士の衛冀隆が服虔の学説をもとに『杜氏春秋』の63か所を批判する上書をおこなうと、思同は衛冀隆に反論する11条を示して論争した。散騎常侍の位を加えられ、七兵尚書を兼ねた。まもなく侍中に任じられた。興和2年(540年)、死去した。使持節・都督青徐光三州諸軍事・驃騎大将軍・尚書右僕射・司徒公・青州刺史の位を追贈された。は文献といった[5][4]

脚注

  1. ^ 魏書 1974, p. 1612.
  2. ^ 北史 1974, p. 1730.
  3. ^ a b 魏書 1974, p. 1615.
  4. ^ a b c 北史 1974, p. 1733.
  5. ^ 魏書 1974, pp. 1615–1616.

伝記資料

  • 魏書』巻72 列伝第60
  • 北史』巻47 列伝第35

参考文献




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