薛チョウとは? わかりやすく解説

薛チョウ

(薛憕 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/13 07:14 UTC 版)

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本来の表記は「薛憕」です。この記事に付けられた題名は技術的な制限または記事名の制約により不正確なものとなっています。

薛 憕(せつ ちょう、生没年不詳)は、中国北魏末から西魏にかけての政治家は景猷。本貫河東郡汾陰県。薛弘敞(薛真度の父)の曾孫。

経歴

早くに父を失い、家は貧しく、みずから農耕して祖母を養い、暇をみては古典籍を読んだ。531年、給事中に任じられ、伏波将軍の位を加えられた。

高歓が起兵すると、薛憕は陳郡と梁郡の間を遊歴した。「関中は形勝の地であるので、必ずや霸王となるものがいるだろう」と一族の薛孝通に言い、孝通とともに長安に向かった。侯莫陳悦がこのことを聞くと、薛憕を召しだして行台郎中とし、鎮遠将軍・歩兵校尉に任じた。534年、侯莫陳悦が賀抜岳を殺害すると、部下の軍人たちはみな喜んだが、薛憕はひとり「侯莫陳悦は才略も少ないのに、良将を害したのだから、敗亡は遠くない。何を喜ぶことがあろうか」と親しい人に告げた。宇文泰が侯莫陳悦を平定すると、薛憕は召し出されて記室参軍となった。孝武帝が関中に入ると、薛憕は征虜将軍・中散大夫の位を受け、夏陽県男に封じられた。535年、西魏が建国されると、中書侍郎に任じられ、安東将軍の位を加えられ、爵位は伯に進んだ。

538年、宣光殿と清徽殿が落成すると、薛憕は頌を作った。西魏の文帝が仙人欹器と水芝欹器のふたつの欹器を作らせると、薛憕はまた2器のために頌を作った。西魏には儀制の多くが欠けていたので、宇文泰は薛憕と盧弁・檀翥らに命じて儀制を制定させた。後に薛憕は事件に連座して処刑された。

子の薛舒が後を嗣いだ。薛舒は礼部下大夫・儀同大将軍となり、に対する副使をつとめた。

伝記資料

  • 周書』巻38 列伝第30
  • 北史』巻36 列伝第24




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