辛威とは? わかりやすく解説

辛威

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/26 07:52 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

辛 威(しん い、512年 - 580年)は、中国西魏から北周にかけての軍人本貫隴西郡狄道県

経歴

北魏河州四面大都督の辛生の子として生まれた。はじめ賀抜岳の西征に従って功績を挙げ、都督・輔国将軍となった。534年宇文泰が賀抜岳の部衆を引き継ぐと、辛威は召されて帳内となった。まもなく羽林監に任ぜられ、白土県伯に封ぜられた。孝武帝を迎え、迴洛城を攻撃するのに、功績は最上とされた。535年、西魏が建国されると、寧遠将軍に任ぜられた。通直散騎常侍に累進し、爵位は侯に進んだ。従軍して竇泰を捕らえ、弘農を奪回し、沙苑に戦い、いずれも先鋒として活躍した。前後の功により、撫軍将軍・銀青光禄大夫の位を受けた。于謹の下で襄城を落とした。また独孤信に従って洛陽に入り、河橋の戦いに参加し、持節を加えられ、爵位は公に進んだ。539年揚州刺史に任ぜられ、大都督を加えられた。547年車騎大将軍儀同三司となり、驃騎大将軍・開府儀同三司に転じ、普屯氏の姓を受け、敷州刺史として出向した。河州刺史に転じ、河州大中正をつとめた。

557年、北周の孝閔帝が即位すると、大将軍に任ぜられ、爵位は枹罕郡公に進んだ。北斉司馬消難が北周に帰順してくると、辛威と達奚武が応接にあたった。561年、兵を率いて丹州の胡族の乱を討ち、これを撃破した。563年、達奚武とともに陽関を攻撃して、これを落とした。564年尉遅迥の下で洛陽を包囲し、帰還すると小司馬に任ぜられた。566年、位は柱国に進んだ。再び行軍総管となって、綏州銀州などの胡族の乱を討ち、これらを平定した。571年、斉王宇文憲の東征に従い、伏龍など5城を落とした。572年、大司寇に任ぜられた。574年、少傅に転じ、寧州総管として出向した。578年、位は上柱国に進んだ。580年、宿国公に進み、再び少傅となった。その年の冬、69歳で死去した。

子の辛永達が後を嗣ぎ、儀同大将軍に上った。

伝記資料

  • 周書』巻27 列伝第19
  • 北史』巻65 列伝第53




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「辛威」の関連用語

1
6% |||||


3
4% |||||

4
4% |||||

辛威のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



辛威のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの辛威 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS