イクケン左賢王単于とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 固有名詞の種類 > 人名 > 軍人・武士 > 中国の歴史上の人物 > 漢代の人物 > イクケン左賢王単于の意味・解説 

イクケン左賢王単于

(薁鞬左賢王單于 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/26 01:21 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
本来の表記は「薁鞬左賢王単于」です。この記事に付けられた題名は技術的な制限または記事名の制約により不正確なものとなっています。

薁鞬左賢王 単于(いくけんさけんおう ぜんう、拼音:Yùjiānzuŏxiánwáng Chányú、? - 50年)は、中国後漢時代の南匈奴の対立単于。呼都而尸道皋若鞮単于の子で、蒲奴の弟。もと北匈奴の薁鞬[1]左賢王だったため、薁鞬左賢王単于と呼ばれる。姓は攣鞮氏、名は不明。

生涯

呼都而尸道皋若鞮単于の子として生まれる。

建武22年(46年)、兄の蒲奴が単于に即位すると、薁鞬左賢王に任ぜられる。

建武24年(48年)冬、右薁鞬日逐王のが呼韓邪単于と称して自立、南匈奴を創始する。これによって匈奴は南北に分裂し、もとの方は北匈奴となった。

建武25年(49年)、南匈奴左賢王のが1万の兵を率いて攻めてきた。薁鞬左賢王は生け捕られ、北匈奴の単于庭(本拠地)が破られ、北単于の蒲奴は1千余里も退去した。

建武26年(50年)夏、薁鞬左賢王は同じく捕えられた北匈奴の民衆および5人の骨都侯ら計3万余人を率いて叛き、北庭(北匈奴の単于庭)から300余里の地点で単于に推戴された。しかし、1か月あまりが過ぎると、互いに攻撃し合い、5人の骨都侯は死に、薁鞬左賢王は自殺した。

脚注

  1. ^ 内田吟風氏は『北アジア史研究 匈奴篇』において、“薁鞬(いくけん)”は後の柔然突厥などに見られるイルキン(irkin)の漢字訳ではないかとしている。

参考資料





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

イクケン左賢王単于のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



イクケン左賢王単于のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのイクケン左賢王単于 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS