茄子作窯跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/11/11 11:48 UTC 版)
茄子作窯跡(なすづくりかまあと/なすづくりようせき)は、大阪府枚方市茄子作南町にある古墳時代の須恵器窯跡。
概要
大阪府北部、天野川の西岸台地上の茄子作遺跡内に所在する初期須恵器の窯跡である。2004-2006年度(平成16-18年度)の第二京阪道路建設に伴う調査の際に谷流路から初期須恵器片が多量出土したことで窯の存在が推測され、2025年度(令和7年度)の茄子作地区の土地区画整理事業に伴う調査で窯跡が確認されている。
確認された窯は3基(1-3号窯)で、丘陵斜面において近在する。3基のうち1基(3号窯)は、窯の両側に溝を伴う。出土須恵器の大半は甕・壺などの大型器種であり、一部に器台・埦・高坏・𤭯などの小型器種を伴う[1]。北河内地域では、堂山1号墳(大東市)・上私部遺跡(交野市)・楠遺跡(寝屋川市)などで茄子作窯と近似する須恵器の出土が指摘される[2]。
窯3基の操業時期は、古墳時代中期の5世紀前半(須恵器田辺編年TK73型式期[3])頃と推定される[4]。陶邑窯跡群の開始時期とほぼ同時期となる初期須恵器を生産した窯跡と推測され、ヤマト王権および渡来人による須恵器生産の成立過程を考察するうえで重要視される。また茄子作窯跡が所在する茄子作遺跡では、昭和49年以降の調査で弥生時代後期から古墳時代中・後期の集落跡が確認されており、特に韓式系土器を伴う竪穴建物の存在から渡来人との関係が注目される[2]。
遺跡歴
- 1974年(昭和49年)以降、民間宅地造成などに伴う茄子作遺跡の発掘調査。弥生時代後期から古墳時代前・中期の集落跡の確認(枚方市教育委員会・枚方市文化財研究調査会)[3][4]。
- 2004-2006年度(平成16-18年度)、第二京阪道路建設に伴う茄子作遺跡の発掘調査。谷の流路から初期須恵器片が多量出土して窯の存在を推定(大阪府文化財センター、2008年に報告)[3]。
- 2025年度(令和7年度)、土地区画整理事業に伴う茄子作遺跡・茄子作下浦遺跡の発掘調査。初期須恵器窯3基の確認(枚方市・大阪府文化財センター)[4]。
一覧
| 窯名 | 斜距離 | 高さ | 幅 | 傾斜角 | 備考 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1号窯 | 残存5.4m | 残存0.5m | 最大1.4m | 22度 | |
| 2号窯 | 残存8.5m | 残存1.1m | 最大1.65m | 23度 | |
| 3号窯 | 残存10.2m | 最大0.95m | 最大1.8m | 18度 | 両側に溝 |
3基は、いずれも後世に窯の焚口が失われているが、窯体の大半が残存する[4]。
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1号窯
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2号窯
床面に焼台の須恵器片が残存する。 -
3号窯
奥の煙道部に天井が残存する。両側に溝を伴う。
脚注
参考文献
(記事執筆に使用した文献)
- 「茄子作遺跡に残る須恵器窯の調査」(現地説明会資料) (PDF) 財団法人大阪府文化財センター、2025年。 - リンクは大阪府文化財センター。
- 「茄子作遺跡」『大阪府の地名』平凡社〈日本歴史地名大系28〉、1986年。ISBN 458249028X。
- 『茄子作遺跡 -一般国道1号バイパス(大阪北道路)・第二京阪道路建設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書-』財団法人大阪府文化財センター〈大阪府文化財センター調査報告書第174集〉、2008年。 - リンクは奈良文化財研究所「全国文化財総覧」。
- 岡戸哲紀「大庭寺TG231・232号窯、茄子作遺跡出土の初期須恵器」『地域発表及び初期須恵器窯の諸様相』大阪朝鮮考古学研究会〈第22回東アジア古代史・考古学研究会交流会〉、2010年。
関連項目
外部リンク
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座標: 北緯34度46分45.85秒 東経135度40分6.12秒 / 北緯34.7794028度 東経135.6683667度
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