稲田町 (茨城県)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/29 10:23 UTC 版)
| いなだまち 稲田町 | |
|---|---|
| 廃止日 | 1958年2月15日 | 
| 廃止理由 | 編入合併 稲田町 → 笠間町 | 
| 現在の自治体 | 笠間市 | 
| 廃止時点のデータ | |
| 国 |  日本 | 
| 地方 | 関東地方 | 
| 都道府県 | 茨城県 | 
| 郡 | 西茨城郡 | 
| 市町村コード | なし(導入前に廃止) | 
| 総人口 | 7,708人 (1956年) | 
| 隣接自治体 | 岩瀬町、笠間町、新治郡八郷町 | 
| 稲田町役場 | |
| 所在地 | 茨城県西茨城郡稲田町 | 
| 座標 | 北緯36度22分07秒 東経140度12分49秒 / 北緯36.36856度 東経140.21358度座標: 北緯36度22分07秒 東経140度12分49秒 / 北緯36.36856度 東経140.21358度 | 
| ウィキプロジェクト | |
地理
現在の笠間市西部に位置する。山がちな地形であり、涸沼川の支流が流れていた。
大字
- 福原(ふくはら)
- 飯合(いいごう)
- 稲田(いなだ)
人口・世帯数
- 人口
| 1891年(明治24年) |        2,973人 | 
| 1920年(大正 9年) |     5,396人 | 
| 1935年(昭和10年) |    6,517人 | 
| 1950年(昭和25年) |       7,736人 | 
| 1956年(昭和31年) |       7,708人 | 
- 世帯数
| 1920年(大正 9年) |  1,080世帯 | 
| 1935年(昭和10年) |    1,231世帯 | 
| 1950年(昭和25年) |      1,448世帯 | 
| 1956年(昭和31年) |      1,426世帯 | 
歴史
町域の変遷
- 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行により、福原村・飯合村・稲田村が合併して西茨城郡西山内村(にしやまうちむら)が発足。
- 1954年(昭和29年)8月15日 - 西山内村が町制施行・即日改称して稲田町が発足。
- 1958年(昭和33年)2月15日 - 稲田町が西茨城郡笠間町に編入される。
変遷表
| 1868年 以前 | 明治11年 | 明治22年 4月1日 | 昭和29年 8月15日 | 昭和33年 | 現在 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 2月15日 | 8月1日 | ||||||
| 田上村 | 福原村 | 西山内村 | 稲田町に 町制改称 | 笠間町 に編入 | 市制 | 笠間市 | |
| 北中山村 | |||||||
| 南中山村 | |||||||
| 関戸村 | |||||||
| 飯塚村 | 飯合村 | ||||||
| 飯岡村 | |||||||
| 上稲田村 | 稲田村 | ||||||
| 下稲田村 | |||||||
経済
明治時代までの稲田は農村だったが[1]、明治時代中期以後には花崗岩である稲田石の採石業で栄えた。鍋島彦七郎によって稲田石の採掘が本格的に開始されると、稲田駅から鉄道によって東京などに運ばれ、近代には国会議事堂、最高裁判所、東京駅などの建物に用いられた[2]。
交通
 
   鉄道
道路
脚注
- ^ 劉逸飛、鹿嶋航、有田英樹、陸天来、石哲榜、王艺晴、王迪雅、川添航、松井圭介「茨城県笠間における稲田石産業の変遷と生産流通構造に関する研究」『地域研究年報』46号、2024年、pp.69–81
- ^ 稲田石 笠間市
参考文献
- 笠間市史編さん委員会編『笠間市史』、笠間市、1998年
- 角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典 8 茨城県』、角川書店、1983年 ISBN 4040010809
関連項目
「稲田町 (茨城県)」の例文・使い方・用例・文例
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