福田三河守とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 福田三河守の意味・解説 

福田三河守

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/16 04:04 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
 
福田貞正[1]
時代 戦国時代安土桃山時代
生誕 不詳
死没 文禄2年7月3日(1593年7月30日)[1]
改名 (通称)三河守
戒名 霊雲院殿大忠雄勤大居士[1]
主君 織田信長
氏族 福田氏
特記
事項
卅六飛将[2]の一人。朱旄 (馬印) は「朱丸横ニヌイテ」[2]
テンプレートを表示

福田 三河守(ふくだ みかわのかみ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将織田氏の家臣。

経歴

織田信長の家臣で馬廻とされる。

天正3年5月16日(1575年)、長篠の戦いの際に三河国牛窪城の警固役として、丸毛光兼と共にその任に就く[3]。また、同年8月16日に織田信長が越前国の府中龍門寺に出陣 (越前一向一揆) の際に、路地警固として越前国今城を任される。[3][4]

天正5年3月2日(1577年)、織田信長の雑賀攻めの際に、将の一人として根来口より侵攻する[5]

天正10年5月29日(1582年)、織田信長の中国遠征の際に、安土城の二の丸警固役の一人として、その任に就く[6]

その後、史書から姿を消した。

末裔

直系子孫とされる福田家の私記の記述において以下の文面がある[1]

廿六代 文禄二癸巳七月三日

霊雲院殿大忠雄勤大居士 三州牛窪城主 福田三河守貞正

織田信長公幕下、高名士八十三騎内一騎当千之士也 以下略 — 福田家、私記

また、三河守を祀った祠があり、そこで矢に中って戦死したとも言われている。[1]

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ a b c d e 神郷町史
  2. ^ a b 『大武鑑内総見公武鑑』(橋本博編集)※総見公武鑑は浅井玄卜(生没年不詳)が1634年に記述したものを大武鑑に載せたものである。
  3. ^ a b 信長公記』 巻八
  4. ^ ※当時今城と呼ばれた城があったのか、今庄城の脱字であるかは不明。
  5. ^ 『信長公記』 巻十
  6. ^ 『信長公記』 巻十五



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「福田三河守」の関連用語

福田三河守のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



福田三河守のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの福田三河守 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS