神田選吉とは? わかりやすく解説

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神田選吉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/16 04:21 UTC 版)

神田選吉

神田 選吉(かんだ せんきち、安政2年12月16日1856年1月23日[1] - 明治42年(1909年9月4日)は、明治時代の電信施設工学者、技術教育者で東京郵便電信学校校長心得[2]、電柱改良技術家[3]、雷災史の学者[3]、贈従五位勲五等[4]。彼の長男は、天文学者の神田茂[3][5]、神田茂の弟も天文学者の神田清である。

経歴

尾張国名古屋尾張藩士神田梅精の子として生まれる[3]。明治3年(1870年)尾張藩立の洋学校に学び[3]、明治10年(1877年)工部大学校電信科に入学[3](第5期生)[6]、明治16年(1883年)5月に卒業した。その後、工部省に出仕[3]、電信建築に従事し、明治22年(1889年)3月大阪通信管理区電信建築手[3]、同7月に松山電信建築長[3]、次いで、熊本、大阪の同建築長を歴任し[3]、明治28年(1895年)4月東京郵便電信学校教授に任ぜられ[3]、明治38年(1905年)2月に東京郵便電信学校校長心得を命ぜられた[3]。電信学校の廃止に伴い、逓信局工務課に転じ[3]逓信官吏練習所教官兼務を命ぜられていたが[3]、明治42年(1909年)9月4日に没した。墓所は青山霊園立山墓地[3]

業績 

電柱改良技術家としては、宇都宮三郎志田林三郎が薦めた電信柱の防腐剤処理(丹礬(たんばん)注入)に関し、電信建築官として大いに研究改良を加えた[3]。その後の防腐剤処理はクレオソート注入が主流になっていく。さらに時代が進むとコンクリート製電信柱になっていく。雷災史の学者としては、著書の雷の話(電友社, 1906年)にまとめた明治期の雷災史が挙げられる[3]

著書

  • 「電気工学便覧」 - 1896年、電友社
  • 「続電気工学便覧」 - 1898年、電友社
  • 「実用電気学」 - 1905年、電友社
  • 「雷の話」 - 1906年、電友社
  • 「初等電信学」 - 1907年、電友社
  • 「電気史」 - 1908年、電友社

脚注

  1. ^ 『人事興信録 2版』人事興信所、1908年、p.481。
  2. ^ 心得とは、下級の者が上級の役職を代理または補佐するときの職名である。コトバンクより。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 日本電気技術者伝”. Webcat Plus. 2017年11月24日閲覧。
  4. ^ 参考文献の神田選吉簡易検索を参照
  5. ^ 神田 茂先生を悼む” (PDF). 2017年11月24日閲覧。
  6. ^ 明治の文明開化を開いた工部大学校”. 2017年11月24日閲覧。

参考文献




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