田崎東
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/03 07:01 UTC 版)
田崎 東(たざき あずま、1844年2月16日(天保14年12月28日)[1] - 1869年7月5日(明治2年5月26日))は、幕末の蝦夷・松前藩士。名は忠貞[2]。幼名は庫太[1]。
経歴
松前藩勘定奉行・田崎忠純の長男として江戸藩邸に生まれる。1856年(安政3年)台子の間勤め、1860年(万延元年)近習役・御髪番となる[1]。1868年(明治元年)より近習頭、福山裁判司を務める[3]。
同年の箱館戦争にて御中老職・軍事総宰に任じられ、江差で軍を指揮するが、榎本武揚率いる軍隊に敗れ、その後当時の藩主であった松前徳広と共に弘前に逃亡した[2][3]。1869年(明治2年)4月29日の矢不来の戦いで敵弾を受けて負傷し、福山の陸軍病院で死去[2][4]。
田崎東を扱った作品
出典
- 田崎東のページへのリンク