生神女就寝大聖堂 (クルージュ=ナポカ)とは? わかりやすく解説

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生神女就寝大聖堂 (クルージュ=ナポカ)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/30 05:00 UTC 版)

座標: 北緯46度46分19秒 東経23度35分46秒 / 北緯46.77197度 東経23.59604度 / 46.77197; 23.59604

同大聖堂の夜景

クルージュ=ナポカ生神女就寝大聖堂(しょうしんじょしゅうしんだいせいどう、ルーマニア語:Catedrala Adormirea Maicii Domnului)はルーマニアのクルージュ=ナポカで最も有名な正教会大聖堂である。ルーマニアのブルンコヴェネスク様式(Brâncovenesc style)で建てられ、ルネサンス建築ビザンティン建築の総合がみられる。クルージュ・ナポカ劇場とアヴラム・イアンク像とともに、アヴラム・イアンク広場に位置している。

大聖堂はクルージュ=ナポカ、アルバ、クリシャナ(Crişana)、およびマラムレシュ(Maramureş)の府主教座大聖堂である。大聖堂は生神女就寝(ルーマニア語:Adormirea Maicii Domnului)を記憶している。

歴史

大聖堂はルーマニア王国へのトランシルヴァニア合同後の1923年から1933年までの間に建設された。当時クルージュの主教であったニコラエ・イヴァン(1855年 - 1936年)が場所の提案や建設資金の獲得に働いた。1923年9月からこれらの事業は開始された。

大聖堂の建設プロジェクトはジョルジェ・クリスティネル(George Cristinel)とコンスタンティン・ポンポニウ(Constantin Pomponiu)によって進められた。彼等はマラシェシュティ(Mărăşeşti)の廟も設計している。

1933年11月5日、大聖堂は公に、全ルーマニア総主教ミロン・クリステア(Miron Cristea)、トランシルヴァニアの府主教ニコラエ・バラン、クルージュの主教イヴァンによって開かれた。成聖式にはルーマニア国王カロル2世と皇太子ミハイ1世が参祷している。

装飾

大聖堂のメインのドームはイスタンブールアギア・ソフィア大聖堂から影響を受けており、ブランコヴェネスク様式の4本の塔に囲まれている。ドームを支える18本の大きな石柱は彫刻を施されている。大聖堂の主要な建築資材はバチウ(Baciu)とボンポトック(Bompotoc)から切り出された石材である。

内部の壁面は1928年から1933年までの間にアナスタシエ・デミアン(Anastasie Demian)とカトゥル・ボグダン(Catul Bogdan)によって描かれた。二人は共に、地元の藝術大学の教授であった。

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