王桂林
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王 桂林(おう けいりん)は、中華圏の人名。中華民国において、同姓同名の2名の著名軍人が存在する。
王桂林 | |
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『満洲紳士録 第三版』(1940年)
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プロフィール | |
出生: | 生年不明[注 1] |
死去: | 没年不明(1943年11月時点では存命) |
出身地: | ![]() |
職業: | 軍人・官僚 |
各種表記 | |
繁体字: | 王桂林 |
簡体字: | 王桂林 |
拼音: | Wáng Guìlín |
ラテン字: | Wang Kui-lin |
和名表記: | おう けいりん |
発音転記: | ワン・クイリン(ワン・グイリン) |
王 桂林(おう けいりん、生没年不詳)は、清末民初の軍人・官僚。字は清泉[2]。北京政府では陸軍中将。中華民国臨時政府や南京国民政府(汪兆銘政権)華北政務委員会にも参加した。
事績
保定法政学堂、北洋警務学堂、江蘇陸軍教育団をそれぞれ卒業している[1][2]。1913年(民国2年)8月、天津警察庁署長として任用され、翌月には江蘇省城警察庁庁長(後に江蘇全省警務処処長)として抜擢された。翌1914年(民国3年)、陸軍少将の位を授与されている。なお、江蘇全省警務処処長には1920年(民国9年)2月時点でも在任していることから[3]、時期的には江蘇督軍・李純麾下であり、斉燮元とも同僚であった。これ以外にも、南京市政籌備処長や江蘇省戒厳副司令、江蘇省防疫局長、江蘇省防司令、直魯皖三省鉱政監督などをつとめたとされる[1][2]。1920年(民国9年)6月に陸軍中将位を、更に1924年(民国13年)1月には将軍府将軍位を、それぞれ授与された[3]。
王克敏が創立した中華民国臨時政府に、王桂林も参加した。ただし臨時政府創設当初においては、王桂林の任用は見受けられない。臨時政府創設から1年弱が経過した1938年(民国27年)11月17日、治安部(総長:斉燮元)に新設されていた警政局において、王桂林は局長として抜擢された[4][5]。
1940年(民国29年)3月30日、臨時政府が南京国民政府(汪兆銘政権)に合流し、華北政務委員会に改組される。臨時政府治安部は華北政務委員会治安総署に改組されたが、5月4日、王桂林は同総署警政局局長に重任した[6][注 3]。1943年(民国32年)2月、華北政務委員会委員長が王揖唐から朱深に交替した際に大規模な人事異動があったが、王桂林はそのまま警政局局長に重任(留任)している[7]。また、公報上は確認できないが、陸軍中将位を授与されたとされる[1]。
1943年(民国32年)11月、華北政務委員会は大幅な機構改革及び人事異動を行い、治安総署は残ったものの、警政局は廃止された(内務総署の警務局へ移された可能性がある)[8]。この後の王桂林の処遇は不詳である。
著作
- 『警務心得』
- 『留学紀要』
注釈
出典
- ^ a b c d 満蒙資料協会編(1940)、1857頁。
- ^ a b c 外務省情報部編(1937)、26頁。
- ^ a b 中華民国政府官職資料庫「姓名:王桂林」※浙江軍軍人の王桂林に加え、何人かの同姓同名の人物が検出されていることに注意。
- ^ 臨時政府令、令字第294号、民国27年11月17日(『政府公報』第44号、民国27年11月21日、臨時政府行政委員会情報処公報室、3頁)。
- ^ 東亜同文会業務部編『新支那現勢要覧 第二回(昭和十五年)』、945頁。
- ^ 華北政務委員会任用令、任字第61号、民国29年5月4日(『華北政務委員会公報』第1-6期合刊、民国29年6月9日、華北政務委員会政務庁情報局、本会18頁)。
- ^ 『日文国民政府彙報』第169号、民国32年3月29日、中国和文出版社、2頁。
- ^ 「政務委員会機構を大改革」『同盟時事月報』7巻11号通号210号、昭和18年11月事項(12月14日発行)、同盟通信社、86頁。
参考文献
- 王桂林のページへのリンク