藤原清衡
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藤原 清衡(ふじわら の きよひら)は、平安時代後期の武将で奥州藤原氏初代当主。なお母の有加一乃末陪が清原家に嫁いでいた関係で一時期清原 清衡(きよはら の きよひら)と名乗っていた。
注釈
- ^ 死没日には大治3年7月16日(1128年8月13日)という説もある。
- ^ 有加一乃末陪というのが通説だが、頼時の娘には有加一乃末陪の他に、中加乃末陪と一加一乃末倍が記録されており、経清との結婚時期や前九年の役終了時には若かった年齢を考えれば、末娘と考えられている一加一乃末倍の可能性も否定できない。
- ^ 官職は左衛門尉。白石氏の祖と伝わる[1]。
- ^ 後三年合戦の際、応徳3年(1086年)に清原家衡によって殺害された女性で男女別・人数は不明であるが、清衡との間に子をもうけていた清原一族の人ではないかと推測されており、清原武貞の娘の可能性もある。武貞の娘の場合、清衡の義理の姉妹で義兄弟結婚をしたことになる。
- ^ 藤原惟常(小館惟常、家清)の母と推測されている。
- ^ 元永2年(1119年)当時清衡には6男3女の子供がいたと見られる[3]。応徳3年(1086年)に父清衡は異父弟家衡に屋敷を襲撃され、当時の妻子眷族を皆殺しにされている。
- ^ 清衡の実の娘(基衡の姉妹、秀衡のおば)か基衡の実の娘(秀衡の姉妹)で清衡の孫娘ともいわれている。また、実際には清原真衡の娘で清衡の義理の姪にあたり、清衡の養女になったとも、基衡の養女との説もあり、確定していない。
- ^ 母は有加一乃末陪というのが通説だが、頼時の娘には有加一乃末陪の他に、中加乃末陪と一加一乃末倍が記録されており、経清との結婚時期や前九年の役終了時には若かった年齢を考えれば、末娘と考えられている一加一乃末倍の可能性も否定できない。
- ^ 東北大教授佐佐久監修『亘理郷土史』によると権太郎。また、研究者の間では、清衡の曾孫の国衡の幼名が信寿丸、同じく曾孫である泰衡の子(清衡の玄孫)の幼名が万寿丸であることから、清衡の幼名も「○寿丸」ではないかという推測もある。
- ^ 高橋克彦によれば、安倍氏と清原氏との間には長年にわたる複雑な血縁関係(姻戚関係)があり、外祖父安倍頼時の嫡妻が清原氏の娘で清衡のおじである安倍宗任の母であることや宗任と清衡の母が同母兄妹(または同母姉弟)である可能性も否定できない。その為、清衡も清原氏の血を引いているという推測もある。但し、頼時の妻の一人に物部氏の娘がおり、清衡の伯父安倍貞任の母で貞任と清衡の母が同母兄妹との説もある。
- ^ 義家の裁定は清衡に有利なものであったとの推測もあり、義家が清原氏弱体化を意図し対立を煽ったとする見解も存在している。
- ^ 同年11月15日の項に「亥の刻関白殿(師実)の使者来たり曰く、清衡(陸奥の住人なり)、馬二疋進上の由、仰する所也。承りおわんぬ、、云々」とある。
- ^ 執筆修行僧堯/大檀主藤原清衡 北方平氏 六男三女 所生
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