清国における「外蒙古」の最初期の用法
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「外蒙古」の記事における「清国における「外蒙古」の最初期の用法」の解説
伝祁韻士著『皇朝藩部要略』は、祁韻士が編纂した『欽定外藩蒙古回部王公表伝』(1779)にもとづいて別人によって編纂された書物で、もっとも早く漠北の「外蒙古」、漠南の「内蒙古」の概念を提示したことが確認されている文献である。張穆は『皇朝藩部要略』の校定者でもある。 『皇朝藩部要略』は藩部を「内蒙古」、「外蒙古喀爾喀部」、「額魯特部」、「回部」、「西蔵部」に区分する。『蒙古遊牧記』は、「外蒙古」を4部86旗、「内蒙古」を6盟49旗、いずれにも属さないオイラト系の諸旗などに分類している。『蒙古遊牧記』が示す「外蒙古」4部は以下のとおり。 トゥシェート・ハーン部(土謝図汗部) サインノヤン部(賽音諾顔部) チェチェン・ハーン部(車臣汗部) ジャサクト・ハーン部(扎薩克図汗部) 両文献とも、「内」「外」を冠して「蒙古」と称するのはゴビ砂漠の南北に分布する北元系の諸侯・諸部族にかぎられ、オイラト系の諸部族は「外蒙古」、「内蒙古」のいずれにも含めていない。
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