清商令
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/24 16:14 UTC 版)
清商令(せいしょうれい)は、中国の3世紀から7世紀、三国時代の魏から唐の初めにあった官職で、はじめ宮廷の娯楽音楽、後には南方系の音楽をつかさどった。
歴史
三国の魏
清商楽は、後漢から魏晋南北朝時代に民間で流行した音楽をいう。後漢では、祭祀・儀式のための伝統的な雅楽を太楽令が管掌し、清商楽に官は関与しなかったが、魏では太楽令と分けて清商令を置いた。
清商令とその次官である清商丞は、『三国志』裴松之注が引く『魏書』の記述で知られる[1]。それによれば魏の皇帝曹芳は、倡優(芸人・俳優)の郭懷らに淫らな行為をさせて遊んだ。清商令の令狐景がその行為の相手をした女官を叱ったが、かえって曹芳に弾(はじき)で打たれ、あるいは焼いた鉄を当てられた[1]。また、皇太后が母の死を傷んで喪に服していたとき、皇帝が芸人と音楽を楽しんでいたため、清商丞の龐熙が諫めたところ、曹芳は龐熙も弾で打った[1]。曹芳は親族に美しい女がいると清商にとどめて戯れた[1]。この文脈での「清商」は、清商令を長官とし、楽人と芸人が勤務していた建物・場所であろうが、魏の宮殿には清商殿という建物もあって、それと一致するかなどは不明である。
以上は嘉平6年(264年)に曹芳を実力者の司馬師が廃位するときに理由として挙げられたことで、どこまで正確な事実か疑う余地もあるが、清商令・丞が皇帝と宮廷の娯楽に関わっていたことはわかる。
西晋
西晋では、光禄勲の下に清商令があった[2]。音楽関係の官としては、別に太楽令と鼓吹令があったが、それらは太常に属した[2]。光禄勲は皇帝の生活と護衛を司り、太常は儀式・祭祀を管掌したので、清商令と太楽令・鼓吹令の分担もそうしたものであろう。
南北朝時代
南朝の梁では、役所として清商署を置いたが、その長官は太楽令で、次官に清商丞を任じた[3]。太楽令の上官は太常卿である[3]。
北朝の斉(北斉・後斉)には、清商部という官庁があり、太楽署の長官である太楽署令が清商部丞を兼ねて統括した[4]。太楽署・太楽令の上には太常寺の長官である太常卿がいた[4]。
隋
北朝の隋の文帝は、南朝の陳を征服して南方の音楽に接したとき、これが正しい音楽だと感じ入り、清商署を置いて所管させた[5]。
清商署は太常寺の下にあり、長官が清商令、次官が清商丞で、定員は各1人であった[6]。その下に楽師員が2人ついた[6]。音楽の官としては他に太楽令を長とする太楽署、鼓吹令を長とする鼓吹署があり、いずれも太常寺に属した[6]。
唐
隋末・唐初を通じて音楽を学んだ祖孝孫は、南の清商楽にも北の音楽にも正しくない地方的なものが混ざっていると言い、古い伝統的な音楽を復元して大唐の雅楽とした[7]。
唐ははじめ清商署と鼓吹署をおいたが、統合して鼓吹署にした。そのため、鼓吹署は令が2人、丞が2人の変則的な体制をとった[8]。これは『新唐書』がいうところで、『旧唐書』は鼓吹署に鼓吹令1人と鼓吹丞3人と記し、清商署には言及しない[9]。時期による違いであろう。
清商令の人物
脚注
- ^ a b c d 『三国志』巻4、魏書4、三少帝紀第4、斉王芳、嘉平6年。裴松之注。ちくま学芸文庫『三国志』1の312 - 314頁、注2。
- ^ a b 『晋書』巻24、志第14、職官、
- ^ a b 『隋書』巻26、志第21、百官上、梁。
- ^ a b 『隋書』巻27、志第22、百官中、後斉。
- ^ 『旧唐書』巻28、志第8、音楽1。
- ^ a b c 『隋書』巻28、志第23、百官下
- ^ 『旧唐書』巻79、列伝第29、祖孝孫。
- ^ 『新唐書』巻48、志第38、百官3、太常寺、鼓吹署。
- ^ 『旧唐書』巻44、志第24、職官3、太常寺、鼓吹署。
- ^ 『三国志』巻4、魏書4、三少帝紀第4、斉王芳、嘉平6年。裴松之注。ちくま学芸文庫『三国志』1の312 - 314頁、注2。事件の記述の中に嘉平4年の張皇后の立后がある。曹芳の廃位が嘉平6年。
参考文献
外部リンク
- 中央研究院・歴史語言研究所「漢籍電子文献資料庫」。
- 清商令のページへのリンク