洪昌燮
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洪 昌燮のち洪 滄燮(ホン・チャンソプ、朝鮮語: 홍창섭、1905年4月6日 - 2001年5月13日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の公務員、政治家。原州郡・三陟郡郡守、春川市長、第2・3・8・9代韓国国会議員、第7代江原道知事を歴任した[1]。
名前について
1958年の第4代総選挙までは「洪昌燮」という名前を使ったが、同選挙で民主党の桂珖淳に敗れた後、「『昌』字の運勢が尽きた」という助言を受け、また親戚にも同じ漢字名の人がいるため、同音の「洪滄燮」に改名した。その後は江原道知事となった一方、投獄も経験して1967年の第7代総選挙で落選し、新民党移籍後の1971年の第8代総選挙と1973年の第9代総選挙で2連続復活当選した[3]。
経歴
江原道春川郡または楊口郡出身。1925年、春川農業高等学校卒。平昌郡勧業課長、三陟郡守を経て、光復後は原州郡守、春川府尹、春川市長、国民会江原道支部長、国会運営委員長・農林分科委員長・1954年産秋穀売上特別対策委員会委員長・江原道本部会会長・国民防衛軍事件調査委員・国会議員舌禍事件調査委員・申亨植事件調査委員、自由党春川市党委員長・中央党組織部長・中央党部監察副委員長、江原道農民会会長、第7代江原道知事(1959年5月13日〜1960年4月30日)[4]、江原道儒道会会長、新民党江原道党委員長、国会無所属議員会会長を歴任した。1982年からは国会議員同友会副会長・国会政策研究委員会議長、大韓民国憲政会第6代会長を歴任し、2001年5月13日に老衰により死去した[2][1][5]。
活動
国会議員在任中は地主転業に関する建議案とマッカーサー線の確保に関する決議案を提出し、可決させた[5]。
不祥事
江原道知事在任中に3・15不正選挙に関与したため、四月革命により失脚した後は2年間投獄された[5][3]。
脚注
- ^ a b c “대한민국헌정회”. www.rokps.or.kr. 2025年9月3日閲覧。
- ^ a b 김영선, “홍창섭 (洪昌燮)” (朝鮮語), 韓国民族文化大百科事典 (韓国学中央研究院) 2025年9月3日閲覧。
- ^ a b “의회정치 60년, 선량들이 낳은 진기록|신동아” (朝鮮語). 신동아 (2008年8月4日). 2025年9月3日閲覧。
- ^ “강원특별자치도청 - 새로운 강원! 특별 자치시대!” (朝鮮語). 강원특별자치도청 - 새로운 강원! 특별 자치시대!. 2025年9月3日閲覧。
- ^ a b c “근현대인물자료 < 한국 근대 사료 DB”. db.history.go.kr. 2025年9月3日閲覧。
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