波才
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波 才(は さい、? - 184年[要出典])は、中国後漢末期の人物[1]。潁川黄巾軍の指揮官の1人。『三国志』には記述がなく、『後漢書』霊帝紀・皇甫嵩伝に記述がある。
184年春、張角の挙兵に呼応し、張曼成・張燕や博陵郡の張牛角らと同時に、それぞれ各地で挙兵した。波才は、潁川郡で朱儁らの官軍を相手に善戦し撃破した。波才はこの機を逃すまいと、籠城する皇甫嵩・朱儁を包囲することに成功し戦いを有利に進めたが、5月に[2]皇甫嵩の強風を利用した火計と曹操の援軍によって大敗を喫した。
後に汝南郡に移ったが、勝ちに乗じた皇甫嵩・朱儁と、当時朱儁の配下にいた孫堅の追撃を受け、再び敗れた[3]。
小説『三国志演義』には登場しない。
出典
外部リンク
波才(は さい)
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太平道の幹部。侠の出身。会見を申し入れた劉備を味方に引き込もうするが、油断した所で劉備に首を刎ねられた。
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