河西健次とは? わかりやすく解説

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河西健次

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/23 00:01 UTC 版)

河西 健次(かさい けんじ、明治元年2月24日1868年3月17日〉 - 昭和2年〈1927年5月14日[1])は日本医師。陸軍軍医、満鉄大連医院院長、武蔵野病院[注釈 1]創設者。

略歴

長野県小県郡和田村[3]の医者の家系に長男として生まれる[4]。1890年(明治23年)帝国大学医科大学在学中に陸軍医官候補生に採用され、日清戦争に出征した[4]。1894年(明治27年)大学卒業後[5]京都帝国大学大学院を経て、伏見衛生病院、台北衛生病院付となり、日露戦争時には三等軍医正となる[4]。1906年(明治39年)ドイツ駐在となり、1908年(明治41年)現役のまま南満洲鉄道衛生課長兼大連医院長に就任した[5][4]

1911年(明治44年)、奉天における国際ペスト会議に列席し、軍医正に進み、1912年(大正元年)南満医学堂の初代堂長を兼任した[4]。1913年(大正2年)予備役に編入[6]

満鉄大連医院院長を辞して帰国し、佐藤運雄が設立した東洋歯科医学専門学校の監事となり、内科学も教えた[7]。郷里の友人だった山岡萬之助日本大学医科設置への協力を頼まれ、東洋歯科医学専門学校との合併を勧めた[7]東京都新宿区西新宿にあった武蔵野病院設立に参画し、病院長を務めた[7]

家族

脚注

注釈

  1. ^ 1894年、現在の東京都新宿区西新宿に開院した病院で [2]東京武蔵野病院とは異なる病院である。

出典

  1. ^ 信濃人物誌」国立国会図書館デジタルコレクション
  2. ^ 醫海時報(1454)」国立国会図書館デジタルコレクション
  3. ^ a b 長野県勢総覧 下巻」国立国会図書館デジタルコレクション
  4. ^ a b c d e 河西健次コトバンク
  5. ^ a b c 河西健次『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
  6. ^ 河西健次shirakaba.link
  7. ^ a b c 東洋歯科医学専門学校の日本大学への合併迄の経緯とその後の展開 : 主な関係者と関係書類を中心に 工藤逸郎ほか、日本歯科医史学会会誌 24 (2), 145-156, 2001-09-30
  8. ^ 河西惟一『人事興信録』第8版、昭和3(1928)年
  9. ^ 河西惟一shirakaba.link



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