楊朝晟とは? わかりやすく解説

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楊朝晟

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/12 01:40 UTC 版)

楊 朝晟(よう ちょうせい、生年不詳 - 801年)は、唐代軍人は叔明。本貫夏州朔方県[1][2]

経歴

楊懐賓の子として生まれた。はじめ朔方で部軍前鋒をつとめ、功績を重ねて、甘泉府果毅に任じられた。建中元年(780年)、邠寧節度使の李懐光が涇州で劉文喜を討つのに従って、斬り捕らえる者が多く、驃騎大将軍を加えられた。しばらくして右先鋒兵馬使に転じた。後に李納徐州に進攻してくると、朝晟はその征討に従って、功により開府儀同三司検校太子賓客に任じられた[1][2]

建中4年(783年)、徳宗奉天に避難すると、李懐光は山東から徳宗救援に赴いた。朝晟はその下で右廂兵馬使となり、1000人あまりを率いて咸陽に下り、朱泚の反乱軍を阻んだ。御史中丞の位を加えられた。興元元年(784年)、李懐光が河中府で反乱を起こすと、朝晟は反乱軍に加担するよう脅された。徳宗が梁州洋州に避難すると、韓遊瓌が邠寧に退き、張昕が邠州で後務を総べ、李懐光に帰順した。ときに朝晟の父の楊懐賓は韓遊瓌の部将となって、夜間に数十騎で張昕らを斬った。朝晟はそのことを聞くと、「父が国のために功を立てているのに、子は反乱者の仲間として処刑されてしまう」と泣いて李懐光に告げた。朝晟は李懐光に捕らえられた。官軍が河中府を包囲し、李懐光の乱を鎮圧すると、朝晟は邠寧節度使の韓遊瓌の下で任用され、都虞候となった。父子ともに開府・太子賓客・御史中丞となり、異姓王に封じられた[3][4]

貞元4年(788年)、韓遊瓌に代わって張献甫が邠寧節度使となった。邠寧の軍中で裴満という者が反乱を扇動して朝晟を誘うと、朝晟は偽って賛同し、ひそかに計って300人あまりを斬った。張献甫が奏上すると、朝晟は御史大夫を加えられた。貞元9年(793年)、朝晟は塩州に城を築き、外境を守るために徴兵し、兵士を分け統べて木波堡に駐屯した。貞元12年(796年)、張献甫が死去すると、朝晟は代わって邠寧節度使となった。この年、母が死去したため、朝晟は辞職して喪に服したが、まもなく左金吾衛大将軍同正・邠州刺史・兼御史大夫として復帰した。貞元13年(797年)春、朝晟は方渠・合道・木波の地に城を築いて、賊の侵入に備えたいと上奏した。徳宗はこれを聞き入れ、工事を完了させた。吐蕃の侵入があったが、数日で撤退させた[5][6]

貞元15年(799年)、朝晟は服喪を免じられ、検校工部尚書を加えられた。貞元17年(801年)夏、西北遊牧民への対策のために軍を寧州に移した。朝晟は病が重くなり、10日あまりして死去した[7][6]

脚注

  1. ^ a b 旧唐書 1975, p. 3926.
  2. ^ a b 新唐書 1975, p. 4897.
  3. ^ 旧唐書 1975, pp. 3926–3927.
  4. ^ 新唐書 1975, pp. 4897–4898.
  5. ^ 旧唐書 1975, p. 3927.
  6. ^ a b 新唐書 1975, p. 4898.
  7. ^ 旧唐書 1975, p. 3928.

伝記資料

  • 旧唐書』巻122 列伝第72
  • 『旧唐書』巻144 列伝第94
  • 新唐書』巻156 列伝第81

参考文献




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