梶原一族の滅亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 03:56 UTC 版)
正治元年(1199年)正月に頼朝が死去すると梶原一族の運命は暗転。同年11月に景時は三浦義村、和田義盛ら御家人66人の連名の弾劾を受けて、鎌倉から追放され、所領の相模国一ノ宮へ退いた。 正治2年(1200年)正月、景時、景季は一族とともに相模国一ノ宮を出て上洛を企てた。途中、駿河国清見関で在地の武士と諍いになり、弟たちは次々と討ち死にしてしまった。景季は景時とともに山中に退いて戦い、ここで一族とともに自害した。享年39。
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