李載義とは? わかりやすく解説

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李載義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/05 13:06 UTC 版)

李 載義(り さいぎ、788年 - 837年)は、唐代軍人。もとの名は再義。は方谷[1]

経歴

恒山愍王李承乾の末裔にあたる。代々武力の家として知られ、父は薊州刺史をつとめていた。再義は幼くして父を失い、郷里の豪傑と遊歴した。勇気と力量にすぐれ、相撲を得意とした。劉済が盧龍軍節度使となると、再義はその雄偉を見込まれて、軍の側近に任用され、征伐に従軍した。功により牙内都知兵馬使をつとめ、検校光禄大夫となり、監察御史を兼ねた。宝暦2年(826年)、盧龍軍で兵乱が起こって節度使の朱克融が殺害されると、その子の朱延嗣が節度使の位を嗣ごうとしたが、朝廷の命に従わず、部下を残酷に扱った。そこで再義と弟の李再寧は朱延嗣を殺害し、その罪を列挙して奏聞した。敬宗により検校戸部尚書に任じられ、御史大夫を兼ね、武威郡王に封じられ、幽州盧龍軍節度副大使・知節度事をつとめ、載義の名を賜った[1][2]

横海軍節度使の李全略が死去し、その子の李同捷が節度使の位を嗣ごうとすると、載義は上表して、李同捷を討ちたいと志願した。検校尚書右僕射を加えられた。李同捷の軍を連破し、功により司空を加えられた。大和3年(829年)、李同捷の乱が平定されると、載義は勲功により同中書門下平章事を加えられた。大和4年(830年)、契丹が東北辺境を侵犯すると、載義は盧龍軍を率いてこれを撃退し、契丹の名王を捕らえ、太保を加えられた[1][2]

大和5年(831年)春、部下の楊志誠に幽州から追放され、長安に入朝した。この年、山南西道節度観察等使に転じ、興元尹を兼ねた。大和7年(833年)、北都留守に転じ、太原尹を兼ね、河東節度観察処置等使をつとめた。ほどなく開府儀同三司の位を加えられた。母が死去したため、載義は喪に服し、喪が明けると、河東節度使のまま驃騎大将軍として復帰した[3][2]

大和9年(835年)、侍中を加えられた。開成2年(837年)、死去した。享年は50。太尉の位を追贈された[4][5]

家族

  • 曾祖父:李凝(検校太子賓客)
  • 祖父:李庭弼(澶州刺史)
  • 父:李休祥(薊州刺史)
  • 弟:李載寧(もとの名は再寧)
  • 子:李正源(右羽林軍将軍)
  • 子:李弘源(太子左諭徳)

脚注

  1. ^ a b c 旧唐書 1975, p. 4674.
  2. ^ a b c 新唐書 1975, p. 5978.
  3. ^ 旧唐書 1975, pp. 4674–4675.
  4. ^ 旧唐書 1975, p. 4675.
  5. ^ 新唐書 1975, p. 5979.

伝記資料

参考文献




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