李相敦とは? わかりやすく解説

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李相敦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/10 15:22 UTC 版)

李 相敦(イ・サンドン、朝鮮語: 이상돈1912年3月20日 - 1997年7月14日)は、大韓民国実業家ジャーナリスト政治家制憲・第5・6代韓国国会議員[1]

本貫慶州李氏[2]青居(チョンゴ、청거/靑居[1]

経歴

日本統治時代の忠清南道天安郡出身。光州学生運動に関わったことにより公州高普中退、1933年徽文高等普通学校卒。早稲田大学第一高等学院を経て、1939年に早稲田大学政治経済学部経済科卒。卒業後は東亜日報に入社して記者・編集局論説部論説委員を務めたが、翌1940年に強制廃刊された。その後は京城天一薬房庶務課長、東亜薬品工業創立者・常務理事、韓国民主党中央執行委員・宣伝部次長、民主国民党宣伝部次長、民主党天安乙区党委員長・中央常務委員・政策委員を務めた。1949年の制憲議員の補欠選挙で当選したが、その後の総選挙で3連敗した。1960年の第5代総選挙と1963年の第6代総選挙で連続当選した。第5代総選挙の直後に民主党が新旧派に分けたため、旧派の新民党に参加し、翌1961年から新民党宣伝部長・運営委員・政務委員、民衆党忠南道支部委員長・商工委員長・建設委員長を歴任し、1968年に新民党政務委員となった[2][1][3]。1973年に新民党を離れて民主統一党の結党に参加したが、1978年に離党し在野で反維新活動を展開した。1987年に平民党顧問、金大中大統領選挙候補選挙対策委員長を務めた。1992年から1994年までは制憲同志会長を務めた[2][4]

1997年7月14日、三星ソウル病院で持病により死去。享年85[4]

エピソード

「不怨天不尤人」を自身の座右の銘としていた[5]

脚注

  1. ^ a b c 대한민국헌정회”. www.rokps.or.kr. 2025年6月10日閲覧。
  2. ^ a b c 이완범, “이상돈 (李相敦)” (朝鮮語), 韓国民族文化大百科事典 (韓国学中央研究院), https://encykorea.aks.ac.kr/Article/E0044580 2025年6月10日閲覧。 
  3. ^ 근현대인물자료 < 한국 근대 사료 DB”. db.history.go.kr. 2025年6月10日閲覧。
  4. ^ a b 제헌의원 李相敦(이상돈)씨”. NAVER Newslibrary. 동아일보 (1997年7月15日). 2025年6月10日閲覧。
  5. ^ 불의와 맞서 싸운 참정치인 14일 타계 李相敦(이상돈)옹”. NAVER Newslibrary. 동아일보 (1997年7月15日). 2025年6月10日閲覧。



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