木綿融通会所
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/10/07 12:20 UTC 版)
安政5年(1858年)藩政改革にさきがけ国産方が設けられ移出木綿の統制が行われた。鳥取町方の太吉郎・嘉助、河村郡橋津村灰吹屋次郎兵衛、汗入郡御来屋村船田藤右衛門、会見郡渡村庄司儀右衛門らが関与して、木綿融通所が設けられ、荷主、仲買人が木綿を移出する場合は、融通所で改め、国産役所から「送り手形を受け取って、番所を通るべし」と改められた。 渡村庄司家に保存されている「御国産御役所手形出入覚」を見ると嘉永6年(1853年)8月から安政2年(1855年)2月まで庄司家を通じて13000反が出荷されており、いかに木綿生産が盛んであったかがわかる。庄司儀右衛門は弟と目される安来屋幸助とともに木綿問屋を兼ね、2人で8600反、全体の63パーセントを出荷、浜の目で見ると84パーセントとなり、庄司家は浜の目を代表する木綿問屋だった。
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