曾根原六蔵
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曾根原 六蔵(そねはら ろくぞう、寛保3年(1743年) - 文化7年10月4日(1810年10月31日)[1])は、江戸時代、出羽国酒田の植林家。
人物
秋田街道ぞいの吹浦と酒田の間は、沙地で草木は一本も生長せず、毎年風害をこうむっていた。六蔵は防風林をも兼ねた植林をくわだて、庄内藩の許可をえて、1780年(安永9年)に沙地に住宅をかまえ、14戸ほどの移住者を募り、ともに植林に従ったが、風害のために容易に成し遂げえなかった。非常な辛苦をなめてようやくのことで244町余の植林を成し遂げた。その植林本数は190万本に達すると言われる。藩主はその功績を賞して1802年(享和2年)に南北1525間、東西600間の土地を永世預り地として与え、かつこの地を開墾しようとも年貢賦役を免除する旨申し渡され、以後しばしば金穀等賞与された。六蔵の死後、1821年(文政4年)にその功をもって子孫に5人扶持を授けられた。墓は山形県遊佐町菅里字菅野の集落の墓地にあり、墓地からは鳥海山と共に黒松の防風林に守られた菅野、谷地等の集落を見下ろすことができる。
近年では墓地周囲の黒松も切り倒され、墓の周囲には収益性のよい杉が植林されている。
脚注
曾根原 六蔵
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文化7年10月4日(1810年10月31日))は、江戸時代、出羽国酒田の植林家。
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