更級郡・筑摩郡・千曲川
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/02 08:51 UTC 版)
「仁科濫觴記」の記事における「更級郡・筑摩郡・千曲川」の解説
同様に諸国の郡の境界を定めた際(古事記には「国々の堺、また大県小県の県主を定めた」とある)、熱躬郡(後に「安曇郡」に改称)と熱躬川(後に梓川に改称)が決められたが、おそらくこのときに筑摩郡と筑摩川(後に千曲川に改称)も決められた可能性が示唆されている。この頃の筑摩郡は、後の更級郡となる地域を含み、後に筑摩郡から更級郡が分かれた際(天智天皇7年(668年)あたり?)、更級郡の川にもかかわらず、千曲川に「つかま/ちくま」の字が残ることとなったと推定している。
※この「更級郡・筑摩郡・千曲川」の解説は、「仁科濫觴記」の解説の一部です。
「更級郡・筑摩郡・千曲川」を含む「仁科濫觴記」の記事については、「仁科濫觴記」の概要を参照ください。
- 更級郡・筑摩郡・千曲川のページへのリンク