明智光綱とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 明智光綱の意味・解説 

明智光綱

(明智光国 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/20 02:26 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
 
明智光綱
時代 戦国時代
生誕 明応6年8月17日1497年9月13日
死没 天文4年8月5日1535年9月12日
別名 光国、光圀、光隆
主君 斎藤道三
氏族 明智氏
父母 明智光継(頼典)
兄弟 光綱、山岸光信、光安、光久、原光広、
光廉、小見の方
お牧の方(武田信豊娘、一説に進士信連娘)
光秀[異説あり]、信教[異説あり] 、康秀[異説あり]、進士晴舎[1][異説あり]御ツマキ[異説あり]
テンプレートを表示

明智 光綱(あけち みつつな)は、戦国時代武将土岐氏の庶流・明智氏明智光継(頼典)の子。明智光秀、明智信教、明智康秀らの父と伝わる。

生涯

明智氏は美濃国・土岐氏の支流。東美濃を本拠とする。初め、父と共に斎藤道三に仕え、のち道三に居城の美濃明智城を攻められ討死したといわれるが(『細川家記』)、真偽は不明[2]。『明智軍記』などによると、光綱について明智光秀の父との記述が見られる。光綱死去の折に光秀はまだ若年で、その成人まで明智光安が明智城主として後見したという。

『明智氏一族宮城家相伝系図書』では、本名は「光隆」とされる。光綱(『系図纂要』)、光国(『続群書類従本』)と諸系図で名前すら一致せず、光秀を土岐氏の末流に連ねることを疑問視する見解もある[2]。また、小林正信は、光秀の父とされる人物を史料上から見出すことはできない、と述べている[3]。 その光秀の誕生時期にも諸説があり、光綱が光秀の父であったのか、現在でも確たる立証はされていない。

脚注

  1. ^ 安国寺蔵「土岐系図」
  2. ^ a b 風間洋 「明智光秀関係人名辞典」、二木謙一編 『明智光秀のすべて』 新人物往来社、1994年、202頁。 
  3. ^ 小林 2019, p. 136.

参考文献

  • 小林正信 『明智光秀の乱 ―天正十年六月政変 織田政権の成立と崩壊』(新装改訂増補版版) 里文出版、2019年。 

関連項目

登場作品




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「明智光綱」の関連用語

明智光綱のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



明智光綱のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの明智光綱 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS