支城的役割の時期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/01/08 05:33 UTC 版)
しかし、その敵対関係は長期化せずに翌8年(1565年)、家康の攻勢に晒された大原資良の吉田城開城退去によって収束する。 同じ徳川陣営下となった吉田城と二連木城であったが、今川支配時代と同様に吉田城代の指揮下に組み込まれたため、また吉田城との連携に欠かせない位置と距離に在ったために二連木城は、自ずと支城的役割を担うこととなった。 危機に陥ったのは、元亀2年(1571年)。主家 徳川氏が関係悪化に陥った甲斐武田氏から、領国を東と北から攻め立てられた頃である。 信濃から南下する武田軍に対し、山家三方衆などのように降伏する者まで現れるようになった東三河。設楽郡の菅沼定盈を4月28日には退散させた武田軍は南進を止めず、吉田城まで攻囲した。その時、二連木城も攻撃対象として狙われたのである。 しかし、吉田城ほどの防御力を有していなかった為か、結局は落城。城兵などは吉田城に退散したという(二連木城の戦い)。
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