徐広とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 徐広の意味・解説 

徐広

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/29 07:07 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

徐 広(徐廣、じょ こう、352年 - 425年)は、東晋から南朝宋にかけての官僚学者。『晋紀』や『史記音義』の著者として知られる。野民本貫東莞郡姑幕県。兄は徐邈(徐豁の父)。姉は何承天の母。

経歴

都水使者の徐藻の子として生まれた。学者の家に生まれて、広く学問を研鑽した。377年太元2年)、謝玄兗州刺史となると、徐広は召されて従事西曹となった。388年(太元13年)、譙王司馬恬の下で鎮北参軍となった。孝武帝に博学を買われて、秘書郎に任じられ、校書秘閣をつとめた。員外散騎侍郎の位を受けた。隆安年間、尚書令王珣に推挙されて祠部郎となった。

388年(隆安4年)、李太后が死去すると、徐広は斉衰3年の喪に服すように主張し、その議論は容れられた。

会稽王世子司馬元顕録尚書事に任じられると、百官に敬意を表させるべく、朝廷で徐広に議論を立てさせ、内外で下官の礼を執らせた。徐広はこのことを恥じた。司馬元顕に召されて中軍参軍となり、領軍長史に転じた。403年元興2年)、桓玄が輔政の座につくと、徐広はその下で大将軍文学祭酒となった。桓玄が帝を称して、安帝が宮中から出ると、徐広は安帝の行列について泣き悲しんだ。

405年義熙元年)、劉裕の命により車服儀注を制定し、鎮軍諮議参軍に任じられ、記室を兼ねた。楽成県五等侯に封じられた。員外散騎常侍の位を受け、著作郎を兼ねた。406年(義熙2年)、国史の編纂を命じられた。

410年(義熙6年)、散騎常侍の位を受け、徐州大中正を兼ねた。正員常侍となった。大司農に転じた。416年(義熙12年)、『晋紀』46巻を完成させ、上表した。秘書監に転じた。

420年永初元年)、恭帝が劉裕に帝位を譲ると、徐広は涙を流して隠さなかった。老齢を理由に退官を願い出て帰郷し、読書の生活を送った。425年元嘉2年)、死去した。享年は74。『答礼問』百条あまりは、南朝で用いられた。

伝記資料

  • 晋書』巻82 列伝第52
  • 宋書』巻55 列伝第15
  • 南史』巻33 列伝第23


このページでは「ウィキペディア」から徐広を検索した結果を表示しています。
Weblioに収録されているすべての辞書から徐広を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。
 全ての辞書から徐広 を検索

英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「徐広」の関連用語

徐広のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



徐広のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの徐広 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS