当主位をめぐる争い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/05/13 05:24 UTC 版)
「ヤシュワント・ラーオ・ホールカル」の記事における「当主位をめぐる争い」の解説
1797年1月29日、ヤシュワント・ラーオの兄カーシー・ラーオ・ホールカルは、父親トゥコージー・ラーオ・ホールカルから当主位をプネーで譲り受けた。 だが、カーシー・ラーオは障害と姦淫癖があり統治者としては不適格だったため、民衆や兵士から嫌われていた。ヤシュワント・ラーオは弟ヴィトージー・ラーオ・ホールカルとともに、人々に人気のあった優秀な兄マルハール・ラーオ・ホールカルを支持し、彼を推した。 3人がカーシー・ラーオを追い詰めたとき、カーシー・ラーオはシンディア家の当主ダウラト・ラーオ・シンディアに助力を求めた。これにより、9月24日にプネーで3人の軍は突如襲われ、マルハール・ラーオは死亡し、その妊娠中の妻はプネーに拘留された。 しかし、ヤシュワント・ラーオとヴィトージー・ラーオはプネーを逃げることに成功し、前者はナーグプルへ、後者はコールハープルへとそれぞれ逃げた。ダウラト・ラーオはナーグプル候ラグージー・ボーンスレー2世にヤシュワント・ラーオの逮捕を要請し、1798年2月20日に逃げていた彼は捕えられた。
※この「当主位をめぐる争い」の解説は、「ヤシュワント・ラーオ・ホールカル」の解説の一部です。
「当主位をめぐる争い」を含む「ヤシュワント・ラーオ・ホールカル」の記事については、「ヤシュワント・ラーオ・ホールカル」の概要を参照ください。
- 当主位をめぐる争いのページへのリンク