延じょう
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えんじょう/えんちん
延敒 |
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貞観4年 - 延長7年12月13日 862年 - 930年1月15日 |
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宗派 | 真言宗、三論宗 |
寺院 | 醍醐寺、東大寺 |
師 | 聖宝 |
弟子 | 法蔵[1] |
延敒(えんじょう/えんちん、貞観4年(862年) - 延長7年12月13日(930年1月15日))は平安時代の僧。醍醐寺2世座主[2]。俗姓は長統氏[3]。
経歴
東大寺で三論を学び、後に醍醐寺で聖宝から三密を学を学んだ。聖宝は彼の法器に感嘆したという[4][3]。
その後、宇多上皇から密教灌頂を受けた。初めて聖宝に従い上皇の宮に入った際、上皇はその才をめずらしく思い、僧綱僧位を授けようとした。しかし、延敒は「経三会で一綱位を昇るのが国の憲章である」からと、固辞した[4]。
延喜9年(909年)、師・聖宝が亡くなり、延敒は遺言により醍醐寺と貞願寺を託された[5]。
延喜11年(911年)、維摩会講師を務める。この時、五獅子の如意[6]が初めて使われた[3][7]。
延長7年12月13日(930年1月15日)、入滅。68歳[3]。『元亨釈書』は延長6年12月13日(929年1月26日)卒、73歳とする。
僧歴
主に『五十音引僧綱補任 僧歴綜覧』による
- 延喜10年(910年)10月22日:講師宣旨
- 延喜11年(911年):維摩会講師[7]
- 延喜18年(918年)2月24日:権律師
- 延長2年(924年)2月30日:東大寺別当[8]
- 延長3年(925年)7月27日:醍醐寺座主[8]。8月9日:法務[8]
- 延長5年(927年):東寺別当
- 延長6年(928年)閏8月28日:権少僧都
- 延長7年(929年)12月13日:入滅
伝記
出典
参考文献
関連項目
- 観賢 - 醍醐寺初代座主
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