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廣津里香

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/31 09:42 UTC 版)

廣津 里香(ひろつ りか、本名:廣津 啓子 1938年昭和13年)2月14日 - 1967年昭和42年)12月12日)は、日本の画家詩人


生涯

昭和19年上原小学校に入学、20年6月、空襲が激しくなり山形県稲川村に母、弟と共に疎開。稲川小学校2年生。母方の祖父宅が空襲にあい、罹災のため疎開。山形県松峯に移転の際ひきとられる。松峯小学校2年生。20年10月、渋谷区の自宅に戻り上原小学校へ戻る。21年4月横浜市鶴見区にある父の弟宅へ転居。鶴見小学校3年生。同年ほとんど同時期に父方、母方の祖父が相次いで死去。23年の2学期から父方の故郷福岡県久留米市に帰る。鳥飼小学校5年生。24年4月、父が敗戦後流体工学に変わり、東京都世田谷区の武蔵工大教授として、大学内に移住。父の元に帰る。尾山台小学校6年生。24年4月尾山台中学1年生。26年2月、父が金沢大学工学部教授として金沢市に転勤。1カ月間紫錦台中学に。26年4月、金沢大学付属中学2年生に編入試験合格。28年4月、金沢大学附属高校入学。31年3月付属高校卒業。32年4月、津田塾大学1年生。上京後建築科を受験して通い始めた阿佐ヶ谷美術専門学校と駿台予備校に掛け持ち通学を始める。津田塾大学へ中退届けを提出。33年、東京学芸大学英文科入学。35年4月、東大教育学部社会教育学科編入学。36年、東大新聞研究所入所試験合格。同大4年生、新聞研究所1年生。37年3月東大教育学部社会教育科卒業。新聞研究所2年生。38年3月東大新聞研究所卒業。39年4月、早稲田大学大学院英文学修士課程入学。40年3月早大修士課程修了。昭和42年12月12日、田無市の救急病院で死去。[1]


作品

画集

  • 『画帳 黒いミサ』思潮社、1977年6月。 
  • 『画帖 不在証明』思潮社、1980年11月。 

詩集

  • 『広津里香詩集 量られた太陽』ポエットリー出版部、1970年12月。 
  • 『広津里香詩集』思潮社、1972年11月。 
  • 『詩集 白壁の花』思潮社、1979年2月。 

日記類

  • 『死が美しいなんてだれが言った』潮出版社〈潮文庫〉、1986年4月。 
  • 『生への手記』思潮社、1983年9月。 
  • 『量られた太陽』沖積舎〈叢書 詩と人生と夭折 3〉、1983年10月。 
  • 『不可能な儀式 生への手記』思潮社、1984年6月。 
  • 『不可能な儀式 生への手記 第2冊』思潮社、1984年6月。 
  • 『広津里香詩集 蝶の町』沖積舎、1987年6月。 
  • 『私は優雅な叛逆者 生への手記』創樹社、1989年2月。 
  • 『蝶への変身 生の手記』創樹社、1990年10月。 
  • 『小説集 白茶の土』創樹社、1991年6月。 
  1. ^ 生への手記』思潮社、1983年9月、204-219頁https://dl.ndl.go.jp/pid/12479748/1/108 




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