市邨芳樹
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いちむら よしき 市邨 芳樹 | |
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生誕 |
1868年3月28日 備後国御調郡尾道 (現・広島県尾道市) |
死没 | 1941年1月1日(72歳) |
出身校 | 東京商法講習所(現・一橋大学) |
職業 | 教育者 |
市邨 芳樹(いちむら よしき、慶応4年3月5日(1868年3月28日) - 昭和16年(1941年)1月1日)は、備後国御調郡尾道(現・広島県尾道市)出身の教育者、学校の設置者[1][2]。女子産業教育の先鞭者[2][3]。広島県立尾道商業高等学校、名古屋経済大学市邨中学校・高等学校、名古屋経済大学高蔵高等学校・中学校創立者[4]。
経歴


青年時代
備後国御調郡尾道(現・広島県尾道市久保町)生まれ[2]。16歳で上京し、1887年(明治20年)に東京商法講習所(現・一橋大学)を卒業した[2]。
教育者として
尾道に帰郷後、20歳のとき私立尾道商法講習所(現・広島県立尾道商業高等学校)を開校し、1898年(明治31年)の広島県への移管後も引き続いて校長を務めた[2][5][6]。
1893年(明治26年)、招かれて愛知県名古屋商業学校(現・名古屋市立名古屋商業高等学校)に赴任、教諭後校長としてその発展に尽力した。女子への本格的な商業教育を実践するため、1907年(明治40年)には日本最初の女子商業学校といわれる[2]名古屋女子商業学校(現・名古屋経済大学市邨高等学校)を設立した[7]。
1918年(大正7年)に名古屋女子商業学校長の職を辞した[2]。同年5月5日、名古屋国技館で市邨の謝恩会が催された際には、市邨の門下生4000人を代表して加藤勝太郎が謝恩の辞を述べ、加藤が出した5000円を含めて10数万円が集まった[8]。謝恩会による資金を元にして、1925年(大正14年)には名古屋第二女子商業学校(現・名古屋経済大学高蔵高等学校・中学校)を創設した[8]。
女子産業教育の先鞭者とされ[2]、「女子商業教育の父」として称えられる[3][9]。
晩年
1928年(昭和3年)には文部大臣表彰を受けた[2]。1941年(昭和16年)1月1日に死去した。墓所は覚王山日泰寺であり、隣接地には門人である太田静男(三井物産筆頭常務)の墓がある。
脚注
- ^ 市邨芳樹、『講談社 日本人名大辞典』、講談社、コトバンク
- ^ a b c d e f g h i 『愛知百科事典』、中日新聞本社、1976年、124-125頁
- ^ a b 「まず、人ありき」、伸びのびと心を育て、個性と可能性を伸ばす 名古屋経済大学市邨中学校
- ^ 『学校創立者人名事典』、日外アソシエーツ、2007年、25頁
- ^ 平松携「中等教育における体育・スポーツの変遷と発展について」『尾道大学経済情報論集』第9巻第2号、尾道大学経済情報学部、2009年、75-120頁、CRID 1390572172715443072、doi:10.18899/kei.0902.02、ISSN 13469991。
- ^ 創立120周年記念式典 ひろしま同窓会ナビ
- ^ 沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」 世界は我が市場なり Network2010
- ^ a b 伊藤正博、沢井鈴一『堀川 歴史と文化の探索』あるむ、2014年、pp.303-305
- ^ 創立者「市邨芳樹」の生涯 学校法人市邨学園
参考文献・ウェブサイト
外部リンク
- 創立者 市邨芳樹の経歴 - 市邨学園サイトより
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