川勝広英
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/19 20:34 UTC 版)
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時代 | 江戸時代前期 - 江戸時代中期 |
生誕 | 寛文5年(1665年) |
死没 | 享保18年7月22日(1733年8月31日) |
別名 | 初隆英、八郎左衛門、勘兵衛(通称) |
戒名 | 徳仁(法名) |
墓所 | 東京都港区赤坂の法安寺 |
幕府 | 江戸幕府 旗本 |
主君 | 徳川綱吉→家宣→家継→吉宗 |
氏族 | 川勝氏 |
父母 | 父:川勝隆房、母:馬淵氏 養父:広宣 |
兄弟 | 隆成、隆明、広英、 女子(岡田由重室)、某 |
妻 | 正室:嶋正信の娘、継室:久世広賢の娘 |
子 | 広達(婿養子。野村為政の三男)、 某(彌三郎)、某(孫三郎)、 女子(伴栄宣室)、女子(川勝広達室) |
川勝 広英(かわかつ ひろひで)は、江戸時代前期から中期の旗本。知氏系重氏流川勝家の4代当主。
生涯
寛文5年(1665年)、川勝隆房の三男として江戸に生まれ、後に川勝広宣の末期養子となった。元禄3年(1690年)8月6日、義父広宣の死去により、その家督(下野内300石、蔵米400俵)を継ぎ、同年10月23日に初めて将軍徳川綱吉に謁見した。
元禄10年(1697年)7月26日、蔵米を改めて、常陸国新治郡、筑波郡、河内郡内において400石を給わり、全てで下野・常陸内700石を知行した[1]。元禄11年(1698年)3月19日、書院番に列し、元禄14年(1701年)5月26日に桐間番に移り、同年8月7日に書院番に戻った。
享保18年(1733年)7月22日、69歳で没した。家督は婿養子の広達が継いだ。
脚注
- ^ 知行地から収納する年貢米が収入となる知行取りに、広英の代より改められた。
参考文献
- 『寛政重修諸家譜(第18)新訂』続群書類従完成会、1981年
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