山本鼎 (軍医)
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山本 鼎(やまもと かなえ[1] 、1852年〈嘉永5年〉11月26日 [2] [注釈 1] - 没年不詳)は、日本の軍医(陸軍)[2]。広島予備病院分院長、第四軍兵站軍医部長[2][4]。
経歴
越中国高岡(現富山県高岡市)に医者の山本道斎の長男として生まれる[1][4]。幼名は道太郎[3]。金沢藩立医学校で学んだ後、1870年(明治3年) 大学東校へ入学[2]。佐藤尚中、司馬凌海、緒方惟準らから教えを受ける[2]。1875年(明治8年)緒方私塾塾頭教授に就任[1]。1877年(明治10年)医術開業試験に合格し[2]同年の西南戦争では新撰旅団所属の陸軍軍医試補に就任する[1][4]。平壌の戦い (日清戦争)では元山支隊の医長を務め、鴨緑江作戦以後は第3師団軍医部員として活動する[1][2]。また、義和団事件においては広島予備病院分院長として活動する[2]。日露戦争では第四軍兵站軍医部長を務める[2]。後備陸軍二等軍医正に就任した後、1911年(明治44年)退役[5]。
注釈
出典
参考文献
- 『日本現今人名辞典 訂正3版』日本現今人名辞典発行所、1903年 。
- 古林亀治郎 編『現代人名辞典』中央通信社、1912年 。
- 杉本勝二郎 編『征清武功鑑 : 一名・金鵄勲章伝 2巻』国乃礎発行社、1896年 。
- 成瀬麟, 土屋周太郎 編『大日本人物誌 : 一名・現代人名辞書』八紘社、1913年 。
外部リンク
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