大久保氏の時代と廃城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 15:43 UTC 版)
後北条氏の降伏後、同年7月26日に徳川家康は諏訪頼忠に羽生領を含む2万7千石の領地を与えたが、同年8月に家康が関東に入封すると、羽生領は大久保忠隣に与えられ忠隣は2万石の領主となった。ただし忠隣は羽生城に入城することはなく、家臣の匂坂道可や徳森伝蔵が城代を務めた。 文禄3年(1594年)、忠隣は父・大久保忠世の死去に伴い家督を相続し、羽生領を含む6万5千石の領主となったが、その後も城代家老らが羽生の領地経営にあたった。その後、慶長19年(1614年)1月に忠隣が改易となり近江国に蟄居するように命じられると、羽生城も同時に廃城となった。
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