塩谷義孝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/30 23:46 UTC 版)
塩谷 義孝(しおのや よしたか)は、下野国塩谷郡の国人武将。
- ^ この生年は秋田塩谷系譜に基づくものだが、義孝の父孝綱と義孝が寄進したと伝えられる薬師如来立像にある胎内の銘文には、永正11年(1514年)11月吉日の日付とともに、義孝は藤千代丸の名で刻銘されており、系譜が正しければ、この時義孝は27歳(数え年)になっており、幼名である藤千代丸の名で記されているのはおかしいという観点、さらに長子である義通が誕生した時、この生年が正しければ義孝はこの時59歳にもなってしまうという観点から、この生年については疑問も呈されている。
- ^ 永禄9年(1566年)付けの義孝の書状が残るので、この時まで義孝が生きていたとする説がある。しかしながら、この説の根拠となる書状には「塩谷左衛門」と書かれており、この名は、塩谷一族が多く名乗っており、これだけでは、この塩谷左衛門が義孝とは特定出来ない。
- ^ 多くの文献では「義孝」の名で記されており、義孝の名の方が知られているが、義孝が、父孝綱の死後に父のために天文18年(1549年)6月6日に建立した石地蔵には「長子 由綱」と刻銘しており、この事から、由綱の方が正式な名前であったとの指摘もある。
- ^ 但し、秋田塩谷系譜には、義尾や孝信の名は見えず、塩谷盛綱(長門守)、泰成、宗親という弟がいたとする。
- ^ 高塩氏系図
- ^ 但し、秋田塩谷系譜には、義通や義綱の名は見えず、塩谷時綱、忠綱、時業という子がいたとする。
- ^ 『栃木県史 資料編・中世四』掲載 塩谷孝綱寄進状には、永正十一年十月十四日の日付に続き「前伯耆守藤原朝臣孝綱」とあり、この頃、若しくはこれ以前に、孝綱が隠居していた事がうかがえる。
- ^ 『那須記』は、義孝が父孝綱の死後、孝信に相談もなく宇都宮家から養子を迎えたことがきっかけで不和になったするが、義孝が宇都宮家から養子を迎えた事実はなく、宇都宮広綱の養女を妻とした事と混同している。
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「塩谷義孝」の続きの解説一覧
- 1 塩谷義孝とは
- 2 塩谷義孝の概要
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