和田一次とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 和田一次の意味・解説 

和田一次

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/02/01 09:28 UTC 版)

和田一次

和田 一次(わだ かずつぐ、1884年明治17年)5月27日[1] - 1949年昭和24年)3月19日[2])は、宮崎市長判事

経歴

宮崎県宮崎郡清武町(現在の宮崎市)に吉田格太郎の二男として生まれ、和田重明の養子となった[1][3]1911年(明治44年)に東京帝国大学法科大学法律科を卒業し、司法官試補となった[1][3]1913年大正2年)、判事となり、水戸区裁判所判事、水戸地方裁判所判事、東京地方裁判所判事を歴任した[1]

1917年(大正6年)、台湾総督府法院判官となり、台北地方法院判官、覆審法院判官、高等法院覆審部判官を歴任した[1]1920年(大正9年)、台湾総督府事務官に転じ、法務部民刑課長監獄課長、法務部長、総督官房文書課長調査課長、台湾総督秘書官を務めた[1]

1929年(昭和4年)、再び判事となり、広島控訴院部長、函館地方裁判所長、札幌地方裁判所長、長野地方裁判所長、福岡地方裁判所[1]神戸地方裁判所[3]大審院部長[2]を歴任した。

退官後の1945年(昭和20年)、宮崎市長に就任したが、間もなく退任。その後、公職追放となった[4]。追放中の1949年(昭和24年)に死去した。

脚注

  1. ^ a b c d e f g 『大日本法曹大観』p.449
  2. ^ a b 『日本の歴代市長』第3巻、p695
  3. ^ a b c 『人事興信録』
  4. ^ 公職追放の該当事項は「翼賛宮崎市」。(総理庁官房監査課編 『公職追放に関する覚書該当者名簿』 日比谷政経会、1949年708頁。NDLJP:1276156 

参考文献

  • 大日本法曹大観編纂会 『大日本法曹大観』 国民社、1936年
  • 人事興信所編 『人事興信録 第14版(下)』 人事興信所、1943年
  • 『日本の歴代市長 第3巻』 歴代知事編纂会、1985年





英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「和田一次」の関連用語

和田一次のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



和田一次のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの和田一次 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS