呂思礼とは? わかりやすく解説

呂思礼

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/14 03:09 UTC 版)

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呂 思礼(りょ しれい、生年不詳 - 538年)は、中国北魏末から西魏にかけての学者軍人本貫東平郡寿張県

経歴

14歳のとき、徐遵明に学問を受けた。論戦を得意として、「を講義しを論じて、その舌鋒は敵しがたい」と評された。19歳で秀才に挙げられ、相州功曹参軍に任ぜられた。葛栄を包囲したとき、思礼は鄴城の防衛に功績を残して、平陸県伯の爵位を受け、欒城県令に任ぜられた。531年司馬子如の推薦を受けて尚書二千石郎中となった。国子博士を兼ねた。関西大行台の賀抜岳に召されて重用された。

534年、賀抜岳が侯莫陳悦に殺害されると、趙貴らが宇文泰を後継者に迎えたが、思礼もその計画に参与した。宇文泰が関西大都督となると、思礼は府長史となり、まもなく行台右丞となった。孝武帝関中に迎えた功績で、汝陽県子に封ぜられ、冠軍将軍を加えられ、黄門侍郎に任ぜられた。535年、西魏が建国されると、著作郎をつとめ、安東将軍・都官尚書に任ぜられ、七兵・殿中二曹事を兼ねた。537年、宇文泰の下で竇泰を討ち、爵位は侯に進んだ。538年、朝政を誹謗した罪で処刑された。

思礼は学問を好み、文才があり、職務のあいだにも巻物を手放さなかった。昼は職務にはげみ、夜は読書して蝋燭を一夜に数升も消費した。541年、車騎大将軍・定州刺史の位を追贈された。

子の呂亶が後を嗣ぎ、北周の末年に駕部下大夫となった。

伝記資料

  • 周書』巻三十八 列伝第三十
  • 北史』巻七十 列伝第五十八




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