名草豊成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/20 14:50 UTC 版)
名草 豊成(なくさ の とよなり)は、平安時代初期の貴族。姓は直のち宿禰。名草島守の孫[1]。官位は従五位下・駿河介。
出自
名草氏(名草直)は紀伊国造の一族。豊成の男系の祖先は宗像氏(宗像直)であり、曾祖父・宗像横根が名草弟日の娘を娶り、所生の島守が養老5年(721年)に母姓を冒して名草姓を名乗ったという[1]。
経歴
紀伊国出身。天長7年(830年)大学博士、承和4年(837年)直講を経て、承和8年(841年)外従五位下・助教に叙任される。また承和6年(839年)正六位上の位階にあった際、一族の安成と共に宿禰姓を賜与され、右京四条四坊に貫附されている。承和11年(844年)駿河介に任ぜられるが、年老いていたことから遙任であり、地方官の俸禄をもって教授するための資金に充てたという[2]。
文徳朝の仁寿4年(854年)従五位下に叙せられるが、同年8月25日卒去。享年83。最終官位は散位従五位下。
官歴
『六国史』による。
- 天長7年(830年) 日付不詳:大学博士
- 承和4年(837年) 日付不詳:直講
- 時期不詳:正六位上
- 承和6年(839年) 9月23日:直姓から宿禰姓に改姓、貫附右京四条四坊
- 承和8年(841年) 日付不詳:助教。11月20日:外従五位下
- 承和11年(844年) 正月:駿河介
- 仁寿4年(854年) 正月7日:従五位下(内位)。8月25日:卒去(散位従五位下)
人物
若い頃から老荘を学び、年を取ってからは五経を読解した。義理を通す性格で、弟子として多くの学生が属していたという[2]。
脚注
参考文献
- 名草豊成のページへのリンク