古橋家 (三河)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 古橋家 (三河)の意味・解説 

古橋家 (三河)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/15 21:11 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

古橋家(ふるはしけ)は、三河国北設楽郡稲橋村(現在の豊田市稲武町)で、江戸中期より代々酒造業を行い、名主を務めた家柄である。

歴史

古橋懐古館

初代古橋義次は、父源治郎と共に中津川用水に力を尽力し、また美濃国恵那郡茄子川村の廃村復興にも努めた。その後秋葉神社参詣の途中、わらじをぬいたのが機縁となって、三河国北設楽郡稲橋村の友人松浦喜兵衛・菅井儀右衛門と三人の共同事業として清酒醸造の業を創め、3年後の享保2年(1717年)に稲橋村に本拠を移し、質業も併せて営み、三河古橋家を興すに至った。

義次は三河古橋家の初代の祖となり、ここで源六郎を名のり、この源六郎が通称で代々家督を相続する際に襲名した。

中でも、古橋暉皃は古橋家六代中興の祖と呼ばれ、19歳で家督を続いで家政を再建した。名主をつぎ、天保の大飢饉には借金借米をして飢民を救済した。文久3年(1863年)、国学の平田篤胤門に入門、訪れる勤皇の志士らを援助し、その一人佐藤清臣(1833年 - 1910年)は、のちに暉皃が明治5年(1872年)に設立した郷学明月清風校の校長になっていた。維新後、三河県庁、伊那県庁に出仕したが、明治5年に退職して帰村、以後村の殖産興業に尽力し、林業をはじめ茶・養蚕・煙草などの事業に取り組み、明治11年(1878年)には近隣の農民有志と農談会を結成し、明治16年(1883年)には官有林の払い下げを受けて植樹を呼びかけ、二宮尊徳(1787年 - 1856年)の起こした報徳仕法を導入して稲橋村の経済の基礎を確立した。

七代古橋義真は父暉皃の教えを畏み、その生涯を勧業・教育に尽くした。北設楽郡長となり、その後東加茂郡長に転任、また北設楽郡長を兼任したが、明治20年(1887年)に両郡長を辞めて後に専ら公共の事に志し、その間稲橋村武節村組合村の村長の職にあったが、自治の成果も大いに上がった。

六代暉皃、七代義真、八代道紀の三代が、一貫した志操をもって収集した書画、その中心となした義真の五十年祭に際し、昭和33年(1958年)に古橋懐古館を建設展示し、昭和46年(1969年)に一般公開して開館した。

古橋家(三河)歴代当主

  1. 初代:古橋義次(正保4年 - 元文3年)
  2. 二代:古橋経仲(元禄11年 - 明和3年)
  3. 三代:古橋義伯(享保17年 - 安永6年)
  4. 四代:古橋義陳(宝暦5年 - 文政10年)
  5. 五代:古橋義教(安永8年 - 嘉永元年)
  6. 六代:古橋暉皃(文化10年 - 明治25年)
  7. 七代:古橋義真(嘉永3年 - 明治42年)
  8. 八代:古橋道紀(明治14年 - 昭和20年)
  9. 九代:古橋源六郎(昭和7年 - )

外部リンク




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「古橋家 (三河)」の関連用語

古橋家 (三河)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



古橋家 (三河)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの古橋家 (三河) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS