勝川家住宅
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| 勝川家住宅 主屋 | |
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| 情報 | |
| 構造形式 | 木造 |
| 階数 | 2階建 |
| 竣工 | 江戸時代後期 |
| 所在地 | 〒509-7403 岐阜県恵那市岩村町317 |
| 座標 | 北緯35度21分55.84秒 東経137度26分28.60秒 / 北緯35.3655111度 東経137.4412778度 |
| 文化財 | 恵那市指定文化財 |
| 指定・登録等日 | 2001年 |
勝川家住宅(かつかわけじゅうたく)は、岐阜県恵那市岩村町にある江戸後期の歴史的建造物。2003年(平成15年)から江戸城下町の館 勝川家(えどじょうかまちのやかた かつかわけ)という名称で一般公開されている。木造2階建て2棟の建物からなり、恵那市指定文化財に指定されている。日本の文化財保護法に規定する文化財種別のひとつである重要伝統的建造物群保存地区に1998年(平成10年)4月17日に選定された岩村町本通りに存在する。
歴史
勝川家
勝川家は屋号を松屋といい、江戸末期から台頭した商家であった[1]。江戸後期の建物といわれ、屋内には書院・茶室・使用人部屋などが残され、往時の暮らし向きを伝えている[1][2]。2003年(平成15年)8月より、恵那市施設の江戸城下町の館 勝川家として公開されている。建物内には、江戸絵や能面などが展示され、観光協会推奨品も販売されている [1] 。
岩村藩御用達として材木や年貢米を扱い[3]、岩村藩財政に大きく貢献した。建物は、岩村城の遺構を偲ばせるたたずまいである。奥行きの深い敷地内には、主屋・離れ・三棟の土蔵を備えている [4] 。離れ座敷の縁は岩村城の遺構の材木の一部が使われ、また裏手の米蔵は、同じく武器蔵その他の土蔵を移したもので、年貢米3000俵を納めたといわれている。岩村藩の財政に度々の援助を行ったため、卸下賜品があった。最後の藩主松平乗命に嫁した尾張徳川家釣姫の遺品なども保存されている [5] 。
山林と農地を多く所有し[6][7]、町内はもとより町外各地に松屋山と呼ばれる勝川家所有の山林から刈り出された銘木を保管する木倉もあった。所有地からの年貢米は裏手にある荷駄の通用門から搬入され、扉を連ねた米蔵へ納めたが、その数は三千俵ともいわれた。幕末期になると、岩村藩の財政はますます苦しくなり、藩の会計方は必然的に商人に頼らざるを得なかったため、勝川家もかなりの御用金を調達させられた[6] 。
明治になって岩村城郭の払い下げが決まると、武器蔵、朱印蔵、土蔵、廊下門、仕切門、煙硝蔵など9棟を落札。岩村城郭の遺構を買いとったといわれる [7] 。
徳川鈞姫と勝川家
岩村藩の最後の藩主となったのは松平乗命で、安政2年(1855年)9月、8歳で家督相続し三万石を領した。激動の幕末期、元治2年(1865年)に徳川将軍の長州征伐に従軍、慶応3年(1867年)に20歳で陸軍奉行となった。明治元年(1868年)に官軍に帰順し、明治2年(1869年)に版籍奉還し、岩村藩知事となった。明治4年(1871年)に24歳で徳川御三家である尾張大納言徳川姓斉荘の四女・鈞姫と結婚した。鈞姫は乗命より5歳上だったが、薄幸の人で、結婚生活3ヶ月で病没した。尾張徳川家は六十一万九千石。松平家は三万石。この婚儀のため巨額な経費がかかったが、岩村藩の財布はすげに空っぽであり、当然、民間に頼らざるを得ず勝川家も負担させられた。3ヶ月して今度は葬儀となり、また出費があったといわれる。勝川家に鈞姫の遺品が多くあるのは、お世話になった勝川家へお礼として贈られたものである [6] 。
岩村城郭の払い下げと勝川家
鎌倉時代からの岩村城も明治維新によって政府の所有となり、さらに明治6年(1873年)6月に岐阜県参事・小崎利準の名でもって岩村城郭の払い下げが告示された。入札した者のなかに勝川家の当主勝川猪蔵の名もあった。勝川猪蔵は武器蔵、朱印蔵、土蔵、廊下門、仕切門、煙硝蔵など9棟を入札した。勝川家にある岩村城郭の遺構はこうして城山から移された [6] 。
建物概要
敷地
主屋正面は本町通りに北面し、南側背面は町道に接する。正面間口は約9間(16.6m)、背面道路境界線は約11間(20.5m)、奥行は最大約45間(81.2m)で、南北に細長く、敷地中央付近を「天正疎水」が東西に横断する。東西の隣地境界線は正面から背面へ向かうにつれて西側に折曲る。したがって、正面近くの隣地境界線に対して、背面近くの隣地境界線は、東側が約4間(7.2m)、西側が最大約11間(19.5m)西側に寄る。敷地面積は516.5坪(1704.6m2)である。地盤面は北東角が最も高く、西、南に向けて緩やかに傾斜している [8]。
主屋
敷地は南北に長く、北辺の表通りに面して主屋が建つ[9]。主屋は江戸後期の建築と推定される。当初は2棟の建物を1棟に改造して使用していたが、復原工事により2棟に戻した。主屋(西側)は、旧主屋であり、間口5間半、通りニワ式二列五間取りで、1階の跳ね上げ大戸、蔀戸は復原した。主屋(東側)は、新しく、間口3間半、当初は通りニワ式一列四間取りであったが、主屋(西側)にあわせて一番南の部屋を切って縁側を設ける改造が行われたと思われる[3][4]。2階は当初表側だけで、東の12帖と西の10帖分に仕切られ、ナカノマとウチニワに階段があり、家族部屋と使用人部屋に分けられていた。東の間の出格子、西の間の平格子も当初のままで古い。屋根は、当初の板板葺の上に桟瓦をのせており、軸部、小屋組とも当初のまま残された貴重な遺構である。小屋組は、表側と裏側では登り梁を用い、ナカノマ部分は二重梁・束立て方式である。母屋は角材と竹を交互に入れ、垂木も角材と竹を交互に用い、竹母屋へは藁縄で結束している。屋根裏に「天保九戌年」の祈禱札が残されており、主屋の建築年代は天保9年(1838年)以前、18世紀末頃までは遡るものと推定される。現在敷地内には、岩村城の廃材を使って大正年間に建てたという離れ座敷や、江戸時代の一戸前土蔵、四戸前土蔵(ペンションに改造)、長屋門倉(レストランに改造)が残されている[3]。
離れ
離れは昭和初期の建築で、岩村には珍しい書院風の建物である。この離れの内装の一部、敷地内にある土蔵には、明治になって岩村城の建物や用材が払下げられたものであると伝わる [4] 。 離れは主屋の南西に接続し、昭和初期に建設された[10]。離れの西面南側には2階建の突出部が接続する[9]。床と床脇付の10畳の主座敷と10畳の次の間が西東に並び、その四周に縁が廻らされている。縁の北西隅に玄関を設け、その東に主屋から延びる渡り廊下が接続する。西面南側突出部は、縁の西側に水屋を設け、縁はさらに南に延びて、その西側、水屋の南に階段を挟んで押入れ付の6畳間が続く。また、この縁の南端には便所が接続する[9]。
2階は、水屋南半から6畳間および縁にかけての上に設けられており、6畳間と水屋の間の階段から上がる。床付の8畳の主座敷と、押入れ付の3畳大の畳敷きの階段室が、南北に並ぶ[9]。2階主座敷は、北面西側に間口一間、奥行四分の一間の床を設ける。床柱はなく、置き床のように床框を矩折れに据え、床板を張る。床框と床板に黒柿を用いる。東面・南面・西面は隅に柱が立つだけで、三方全面窓とし、それぞれガラス障子四枚を引き違いに建て込み、その外側に浅い縁と刎高欄が付く。この開放的で眺望を楽しむつくりは煎茶席と同じである[10]。南には庭が広がり、西から南にかけて蔵が並び建つ[9]。
離れの特徴的意匠
主座敷は、西面北側に框床、南側に地袋と棚および天袋の付く床脇が並び、床柱に赤松の皮付き丸太、床框に黒漆塗を用いる。床脇は地板を敷き、南側奥に地袋を設け、その天板と段違いに北側に棚板を置く。これらの上方には間口いっぱいの天袋が付く。地板に松、地袋側板および天板、棚板、天袋地板に欅を用いる[9]。
水屋は、西面に人造石研ぎ出しの流しを設け、その下は物入れで、型ガラス入りの引き戸4枚が引き違いに建てこまれる。流しの上方は、タイル張りでその上にガラス窓が付く。タイルは和製マジョリカタイルを使用している。また、天井は棹縁天井である[9]
縁は、外側に上下段が磨りガラス、中段が透明ガラスのガラス障子を引き違いに建て込み、欄間も磨りガラスの障子を引き違いに立て込む。天井は化粧屋根裏である[9]。
渡り廊下は、西面と東面で、窓の敷鴨居の高さが異なるが、両面とも下方が無双窓、上方がガラス窓となっている。その上の欄間は西面が無双窓、東面がガラス欄間となっている[9]。
離れ座敷は、2023年(令和5年)に公開された映画『銀河鉄道の父』(役所広司、菅田将暉、森七菜出演)において、ロケ地として使用された。現在離れ座敷には、映画のシーンで使われた写真が飾られている。
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和製マジョリカタイルの流し
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母屋と離れをつなぐ渡り廊下の内部
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離れの外観
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離れの2階
屋敷構え
主屋
本町通りに面して敷地間口いっぱいに建つ。正面戸口は西寄りの1箇所であるが、構造、屋根形状等の異なる東西の2棟からなる。このうち平面規模の大きい西側の間口6間(実長5間半)を「主屋(一)」、東側の間口4間(実長3間と2尺)を「主屋(二)」と呼んでいる。主屋(一)の後方西端には「角屋」が建つ。主屋(二)の後方東端では濡縁から便所棟が伸びている[8]。
離れ
主屋の南側に建つ。主屋(一)背面の縁と渡り廊下で繋がる。この渡り廊下を含めて「離れ」としている。離れには東西に棟をもつ平屋部分(平屋棟)と、棟を南北とする二階建て部分(二階棟)がある[8]。
土蔵
「土蔵(一)」、「土蔵(二)」、「土蔵(三)」の3棟で構成される。これらの土蔵は離れの西から後方にかけて棟続きで連なる。土蔵(一)は離れの西にあり、東面して建つ。土蔵(二)は土蔵(一)の南にあり、東面して建つ。正面筋は土蔵(一)西に約1間後退する。土蔵(一)との間にも増築した室を設けるがここを「味噌蔵」と呼んでいる。味噌蔵の下には天正疎水が流れている。土蔵(三)は土蔵(二)の南端が東に折曲った形状である。土蔵(二)とは梁間、軒高、棟高とも等しく、寄棟で接合する。西側には「便所・浴室棟」、北側の東端には「食堂棟」、南側の東端には「休憩室・調理室棟」が附属する[8]。
外構等
離れ、土蔵(二)、土蔵(三)に囲まれる空地を「中庭」、土蔵(三)と背面道路との空地を「後庭」と呼んでいる[8]。
庭園等
離れの平屋棟を囲むように庭園がある。主屋との渡り廊下、平屋棟の東側、および平屋棟南側の二階棟より東側の範囲である。庭石、飛石、手水石、樹木等で構成され、平屋棟と二階棟の入隅部には水琴窟がある。土蔵(一)の北側に庭石、樹木、樹脂製の池がある。離れの後方で、土蔵(二)の東面、土蔵(三)北面、および東面のコンクリートブロック塀に囲われた範囲は、一部に延石で囲んだ花壇と樹木が数本あるだけの作業庭である。土蔵(三)南側から道路までの間は空地である[8]。
建築物
主屋(一)
- 建築形式:木造、二階建、切妻造カラー鉄板瓦棒葺[3][11][12]
- 建築形式:(正面庇)カラー鉄板一文字葺[12]
- 建築形式:(背面下屋)カラー鉄板一文字葺[12]
- 建築時期:江戸[11]
- 建築面積:203.22m2[12]
主屋(二)
- 建築形式:木造、二階建、切妻造カラー鉄板瓦棒葺[12]
- 建築形式:(正面庇)カラー鉄板一文字葺[12]
- 建築形式:(背面下屋)カラー鉄板一文字葺[12]
- 建築形式:(便所棟)カラー鉄板一文字葺[12]
- 建築時期:江戸[11]
- 建築面積:104.35m2[12]
離れ
- 建築形式:木造、平屋建一部二階建、入母屋造桟瓦葺、四周庇付[9][12]
- 建築形式(西面突出部):木造、2階建、入母屋造、1階東・南・西面庇付、桟瓦葺、2階東・南・西面庇付、銅板葺[9]
- 建築形式(南面突出部):切妻造、桟瓦葺[9]
- 建築形式:(渡廊下)切妻造銅板葺[12]
- 建築形式:(便所棟)切妻造桟瓦葺[12]
- 建築時期:大正から昭和初期[9]
- 建築面積:128.99m2[12]
土蔵(一)
土蔵(二)
土蔵(三)
- 建築形式:土蔵造、二階建、寄棟片切妻造桟瓦葺[12]
- 建築形式:(食堂)切妻造桟瓦葺[12]
- 建築形式:(休憩室・調理室)寄棟造S型桟瓦葺[12]
- 建築形式:(便所・浴室棟)切妻造桟瓦葺[12]
- 建築面積:242.52m2[12]
外構
中庭
後庭
水琴窟
勝川家の庭には、江戸時代の庭師が考案したと伝えられる水琴窟がある。手水鉢やつくばいの近くに小さい穴をあけたカメを土中に埋め、その中に水滴が落ちることによりカメの中で反響を起こし、琴に似た音を出す。水琴窟あるいは洞水門とよばれる[6]。
勝川家育英財団
勝川勘吉の次男である勝川勇作は金物業で財を成した後、実子を持たないまま1924年(大正13年)に死去した[13]。同年7月、友人や親戚らによって遺言である勝川家育英財団が設立された[13]。土地(田7反、畝原野約3畝)、有価証券(債権額1万8200円)、現金(6046円)など、勝川勇作は遺産全てを財団に寄贈している[14]。旧制中学校、高等専門学校、大学などの上級学校で学ぶ学生など[14]、約60人に対して支援が行われた[13]。
太平洋戦争後、経済的混乱によって支援そのものは中止されたが、1971年(昭和46年)には岩村町育英財団に改編されて再開された[13]。恵那市合併後の2008年(平成20年)には財団の資金を恵那市奨学基金に供出し、2018年(平成30年)10月には石碑「勝川勇作翁の顕彰碑」が建立された[13]。
利用案内
- 入館料 無料[2]
- 休館日 火曜日、または年末年始[15]
- 開館時間[2][15]
- 3月~11月は10:00~16:00
- 12月~2月は10:00~15:00
- 交通アクセス[15]
- 車の場合:中央自動車道恵那インターチェンジより国道257号経由
- 鉄道の場合:明知鉄道岩村駅
脚注
- ^ a b c “岩村町観光協会|江戸城下町の館 勝川家”. 岩村町観光協会. 2025年9月21日閲覧。
- ^ a b c 恵南地区文化遺産活用実行委員会 編『恵那市岩村地域観光ガイド教本』、19頁。
- ^ a b c d 豊橋技術科学大学工学部小野木研究室 編『岩村 城下町伝統的建造物群保存対策調査報告書』、68–69頁。
- ^ a b c 『江戸城下町の館 勝川家 (恵那市観光パンフレット関連資料 旧恵南地区1)』恵那市。
- ^ いわむら町まちづくり実行委員会 編『女城主の里 いわむら』(第3版)、53頁。
- ^ a b c d e 樹神弘『岩村城下街の旧家木村・浅見・勝川・山上家 略譜 (岩村町歴史シリーズ)』。
- ^ a b 名鉄不動産 編『城下町の今昔 総集編』、77–78頁。
- ^ a b c d e f 恵那市教育委員会『平成14・15年度旧勝川家住宅整備工事報告書(岩村町指定文化財勝川家)』、7–8頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l m 麓和善ほか『岐阜県近代和風建築総合調査報告書』、483–488頁。
- ^ a b 尼崎博正ほか 編『庭と建築の煎茶文化』、161頁。
- ^ a b c 豊橋技術科学大学工学部小野木研究室 編『岩村 城下町伝統的建造物群保存対策調査報告書』、51頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab 恵那市教育委員会『平成14・15年度旧勝川家住宅整備工事報告書(岩村町指定文化財勝川家)』、1–2頁。
- ^ a b c d e 「勝川勇作翁の顕彰碑が勝川家に建⽴」『ホットいわむらだより』2018年11月号
- ^ a b 岩村町史刊行委員会『岩村町史』岩村町、1961年、pp.509-510
- ^ a b c “勝川家”. 一般社団法人恵那市観光協会 (2023年5月1日). 2025年9月21日閲覧。
参考文献
関連項目
外部リンク
- 江戸城下町の館 勝川家 岩村町観光協会
- 勝川家 恵那市観光協会
座標: 北緯35度21分55.84秒 東経137度26分28.60秒 / 北緯35.3655111度 東経137.4412778度
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