加久見左衛門とは? わかりやすく解説

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加久見左衛門

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/12 03:42 UTC 版)

 
加久見 左衛門
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文18年(1549年
死没 文禄2年9月10日(1593年10月4日
戒名 夢庵貞昨大禅定門
墓所 香佛寺(土佐清水市三崎)
主君 一条兼定長宗我部元親
氏族 加久見氏
華室種梅禅禅定尼
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加久見 左衛門(かぐみ さえもん)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将土佐一条氏の家臣。実名は不明。土佐国幡多郡加久見城主。

出自

加久見氏は古くから幡多郡を根拠としていた国人。土佐一条氏の祖・一条教房幡多荘に下った際、当時の当主・加久見宗孝はこれを迎え入れた。宗孝はその功労によって応仁2年(1468年)12月に一条家家司がしばしば任じられていた土佐守に補任[1]され、近侍していた娘[2]は、教房に愛されて一条房家を生むなど、一条氏傘下の国人領主の中でも特別な地位を占めていたとされる[3]

略歴

天正元年(1573年)9月に一条兼定を隠居させ兼定の子・内政を擁立し、実権を握った羽生道成・為松若狭守・安並和泉守ら家老に反感を抱いていた大岐左京進、大塚八木右衛門、江口玄蕃、橋本和泉守らと挙兵、中村を襲撃し家老らを討伐した。しかし、この事が敵対する長宗我部元親の介入を招き、結果的に土佐一条氏の衰亡を早める結果となった。

土佐一条氏滅亡後は長宗我部元親に恭順し、その所領は安堵された。文禄の役(1592年)の際に長宗我部元親に従って渡海したが、病を得て文禄二年(1593年)9月10日、釜山近郊の島で没した。享年44歳[4]土佐清水市三崎の香仏寺に夫妻の供養塔が現存する。[5]

脚注

  1. ^ 大乗院寺社雑事記』文明元年5月15日条
  2. ^ 教房に同行した町顕郷の養女となる。
  3. ^ 市村高男「海運・流通から見た土佐一条氏」(同編『中世土佐の世界と一条氏』高志書院、2010年)
  4. ^ 皆山集 : 土佐之国史料類纂 第8巻 (民俗(2)・地理(1)篇)』1974年、504頁。doi:10.11501/9769765https://dl.ndl.go.jp/pid/9769765/1/272 
  5. ^ 加久見左近大夫、同夫人墓碑及び三重石塔 - 土佐清水市”. www.city.tosashimizu.kochi.jp. 土佐清水市役所 生涯学習課. 2024年11月10日閲覧。

出典

  • 『大乗院寺社雑事記』
  • 市村高男編『中世土佐の世界と一条氏』(高志書院、2010年)ISBN 978-4-86215-080-6




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