劉恩_(元)とは? わかりやすく解説

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劉恩 (元)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/14 15:39 UTC 版)

劉 恩(りゅう おん、? - 1285年)は、モンゴル帝国大元ウルス)に仕えた漢人将軍の一人。字は仁甫。洺州洺水県の出身。

生涯

劉恩の先祖はもと洺州洺水県の住人であったが、後に威州井陘県に移住した家であった。劉恩は幼いころから読書に親しみ、勇にして謀あり、軍籍に入って功績を挙げ百戸に任じられた。その後管軍総管の地位に移り、耶律買住の指揮下で四川方面の出兵に従事するようになった[1]。南宋の劉整瀘州を守っていたのに対し、1262年(中統3年)に四川方面軍の司令官であるネウリンが劉恩を使者として派遣し、劉恩は劉整を説得して投降させる功績を挙げた。1266年(至元3年)、南宋側が3万の兵と500の戦船でもって攻め寄せて来た時には、劉恩は1千の兵を率いて敵将2人・士卒3千余りを討つ功績を挙げた。この功績により成都路管軍副万戸に任じられている。1269年(至元6年)には平章のサイイド・アジャッルの配下に入って嘉定を攻め、九頂山を過ぎた所で南宋軍と遭遇したが、武将18人を捕虜とする勝利を得た[2]

1272年(至元9年)には西平王アウルクチ・行省イェスデルらの指揮下に入ってガインドゥ(建都)討伐に従事し、先鋒として三度の戦闘に勝利した[3]。その後、夜間に建都軍は夜間に攻撃をしかけたが、劉恩は再びこれを破って死者千人余りを出す勝利を得た。建都への駐屯が長期化し、食料が不足し始めると、劉恩は長江沿岸の諸蛮を招論して糧3万石・牛羊2万頭を集めることに成功したという。建都は山を城代わりとしており、主要な山城が7つあったが、劉恩はそのうち5つを占領し遂に建都を投降に追い込んだ[3]。建都平定の功績により、劉恩は管軍万戸に昇格し、眉州に駐屯することとなった[4]

1275年(至元12年)には嘉定の昝万寿が投降したことにより、劉恩は嘉定に遷ることになった[3]。このころ、陝西・四川方面を統括する安西王マンガラが劉恩を召し出し、「江南は既に平定されつつあるのに、四川が未だ下らないのはなぜか」と問いかけたところ、劉恩は「私に従わない者を厳しく責め立てるようにしてもらえれば、半年で四川を下してみせましょう」と回答したという[5]。そこで安西王はクビライに使者を派遣し、ブカを行枢密院、劉恩を同僉院事に任じることで劉恩の権限は強化された[5]。劉恩は安西王相の李徳輝らとともに四川に侵攻し、1278年(至元15年)には四川の要衝である重慶を陥落させ、逃れた守将の張万も劉恩の説得によって投降させている[3][6]

1279年(至元16年)には四川西道宣慰使に任じられたが、ついで副都元帥に改められ、中央アジアのカイドゥ・ウルスとの戦いのため、ホータンに派遣されることとなった[3]。この間、さらに都元帥に昇格となり、後には甘州に移って屯田を行い、粟2万石余りを収穫している[3]1281年(至元18年)、劉恩は再び命を受けてホータンまで進軍し、カイドゥ配下の玉論亦撒と戦端を開いた。劉恩は伏兵を活用して玉論亦撒を撃退したものの、カイドゥはババ・オグル率いる3万の軍団を援軍として派遣したため、「衆寡敵せず」劉恩は撤退することとなった。1285年(至元22年)には再び四川方面に戻り、僉行枢密院事に任じられたが、まもなく死去した[3]。 死後は息子の劉徳禄が成都管軍万戸の地位を継承している。なお、同じく成都等路万戸府を率いた軍人として、耶律禿満答児・汪嗣昌らがいる[7][8]

モンゴル帝国の四川駐屯軍

[9]

脚注

  1. ^ 周 2001, p. 522.
  2. ^ 『元史』巻166列伝53劉恩伝,「劉恩字仁甫、洺之洺水人、後徙威州。父辛、帰国、署貝州長。恩幼知読書、勇而有謀、以材武隷軍籍、累功為百戸、俄遷管軍総管、佩銀符、太傅府経歴。従入蜀、数有戦功。宋劉整将兵守瀘州、中統三年都元帥紐璘遣恩諭整降、以功易賜金符。至元三年、宋将以戦船五百艘、載甲士三万人、夾江上游、先以一万人拠雲頂山、欲取漢州。恩率千人渡江与戦、殺其将二人・士卒三千餘人、溺死者不可勝計、授成都路管軍副万戸。六年、従平章賽典赤攻嘉定、過九頂山、与宋軍遇、生擒其部将十八人。械送京師、賞賚甚厚」
  3. ^ a b c d e f g 牛根2010,78頁
  4. ^ 『元史』巻166列伝53劉恩伝,「九年、従皇子西平王・行省也速帯児征建都、恩将游兵為先鋒。師次其地、一日三戦皆捷。建都兵夜来犯囲、恩禦之、死者千餘人。時師久駐、食且尽、恩画策招諭沿江諸蛮、得糧三万石・牛羊二万頭、士気益振。建都因山為城、山有七巓、恩奪其五、断其汲道。建都窮蹙、乃降。入朝、升管軍万戸、戍眉州」
  5. ^ a b 松田 1979, p. 45.
  6. ^ 『元史』巻166列伝53劉恩伝,「十二年、昝万寿以嘉定降、恩移戍嘉定。安西王遣使召恩至六盤山、問曰『江南已平、四川未下奈何』。恩曰『若以重臣之不徇私者奉詔督責之、則半年可下矣』。王即遣恩与府僚朮児赤乗伝以聞、帝以為然、命丞相不花等行枢密院于西川、授恩同僉院事。十五年、重慶降、守将張万走夔府、以兵固守、不花遣恩招之、万以城降。旬月之間、得其大小州邑六十四」
  7. ^ 牛根2010,77-78頁
  8. ^ 『元史』巻166列伝53劉恩伝,「十六年、入朝、賞賚有加、授四川西道宣慰使、改副都元帥。率蒙古・漢軍万人征斡端、進都元帥、宣慰使如故、賜宿烈孫皮衣一・錦衣一、及弓刀諸物。師次甘州、奉詔留屯田、得粟二万餘石。十八年、命恩進兵斡端、海都将玉論亦撒率兵万人迎戦、游騎先至、恩設伏以待、大敗之。海都又遣八把率衆三万来侵、恩以衆寡不敵、成師而還。二十二年、僉行枢密院事、卒。子徳禄、襲成都管軍万戸」
  9. ^ 牛根2010,77-78頁

参考文献

  • 牛根靖裕「モンゴル統治下の四川における駐屯軍」『立命館文学』第619号、2010年
  • 松田孝一「元朝期の分封制 : 安西王の事例を中心として」『史學雜誌』88号、1979年
  • 周清樹「元桓州耶律家族史事彙證与契丹人的南遷」『蒙元的歴史与文化』台湾学生書局、2001年
  • 元史』巻166列伝53劉恩伝
  • 新元史』巻153列伝50劉恩伝



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