初期県政
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 07:53 UTC 版)
明治6年(1873年)1月27日に大小切騒動で免官となった権令土肥実匡の後任として大阪府参事から山梨県権令として着任。在地士族層を欠く山梨において、藤村は同年4月に「区戸長公選法」を発布し、区戸長を公選させた上で任命する方式を取り、「新聞解話会」を行大小切騒動で損なわれた人心掌握に務めた。さらに「物産富殖告諭」において殖産興業計画を布告し、戸区長のうち区長総代理、学区取締総理の2名を政策の相談役として県庁に詰めさせ、近藤喜則や栗原信近など地元名士の協力が得られ、興業政策を実行する。
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