佐々木愚山
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| 時代 | 江戸時代末期 - 明治時代初期 |
| 生誕 | 文政6年1月11日(1823年2月21日) |
| 死没 | 明治29年(1896年)9月14日 |
| 別名 | 溥(諱)、子淵(字)、愚山、十二峰、小陰(号) |
| 墓所 | 群馬県高崎市本郷町 |
| 氏族 | 宇多源氏佐々木氏 |
| 父母 | 父:中田三平 |
| 妻 | つる |
| 子 | 穀堂、左原太、ツネ、サダ、とよ、モト |
佐々木 愚山(ささき ぐざん)は、江戸時代末期から明治時代前期の儒学者。名は溥(ひろし)[1]。字(あざな)は子淵[2]。号は愚山の他、十二峰、小陰など[2]。身長六尺、容貌魁偉で声が大きいと言われ[2]、奇人として知られた[3]。
生涯
文政6年(1823年)1月11日[2]、仙台藩領の陸奥国牡鹿郡蛇田村[1](現・宮城県石巻市)に生まれる。父は同じく儒者である中田三平(名は謙、号は淡斎)[4]。父は仙台大町に住んで門弟に学問を教え、豪商・佐藤助五郎(のち仙台藩郡奉行)の顧問として親しく交わったが、文政11年(1828年)に死去した[4]。祖先を佐々木盛綱であると称するが詳細は不明[要出典]。
仙台を離れて下野国の足利学校の訓導となった後、上野国に移り安中藩校・造士館で学問を講じた[1]。七日市藩、安房勝山藩支領白川でも教授を行ったという[2][3]。
明治維新により職を解かれ、榛名山麓群馬郡本郷村(現・群馬県高崎市本郷町)で私塾「白烏堂」を開いた[1]。門人の数は3千人とも言われる[1]。群馬県神道事務局や榛名神社教会で教授を行い[2]、少教正として黒髪山神社などの神社に奉祀した[1]。
明治維新によって四民平等となったからには士族・平民という呼称は不要であり、勲功者を遇するのに華族を設けるとしても華族令による五爵位は不要であるという持論を有していた[5]。また西洋人が行う挨拶の握手を高く評価し、叩頭・拝手などは真の礼ではないと批判した[5]。
著書に安政6年(1859年)『日新録』があり、足利学校祭主・謙堂が序を、安中藩の太山融斎が跋文を書いている[1]。
明治29年(1896年)9月14日死去[5][2][1]。74歳。
長男の穀堂は渋川で医者として開業し、次男・左原太は嬬恋村で農業に従事した[3]。
群馬県高崎市本郷町の本郷神社には、佐々木愚山の顕彰碑が置かれており[2][3]、同じく本郷町に墓がある[1][3]。
門弟
出典
- ^ a b c d e f g h i 安中市誌編纂委員会 編『安中市誌』安中市誌編纂委員会、1964年12月15日、412-413頁。doi:10.11501/3035350。(
要登録) - ^ a b c d e f g h 群馬県群馬郡教育会 編『群馬県群馬郡誌』群馬県群馬郡教育会、1925年10月20日、1453-1454頁。doi:10.11501/1020918。
- ^ a b c d e 榛名町広報委員会 編『わが町の文化財』榛名町歴史民俗資料館、1985年10月19日(原著1971年)、37頁。doi:10.11501/13316977。(
要登録) - ^ a b 吉永哲郎「幕藩体制終末期に生きた知識人の姿(一)―佐々木愚山とその父―」『群馬文化』第172号、群馬文化の会、20-27頁、1976年10月15日。doi:10.11501/6048170。ISSN 0287-8518。(
要登録) - ^ a b c 豊国義孝 編「佐々木愚山先生(上)」『上毛及上毛人』、上毛郷土史研究会、58-64頁、1930年1月1日。doi:10.11501/3567343。(
要登録)
外部リンク
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