伊集院兼知とは? わかりやすく解説

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伊集院兼知

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/15 08:11 UTC 版)

伊集院兼知

伊集院 兼知(いじゅういん かねとも、1870年11月2日(明治3年10月9日[1]) - 1957年昭和32年)2月19日[1][2])は、明治から昭和期の宮内官、政治家華族貴族院子爵議員。旧姓・本荘[1]。幼名・恕男[3]

経歴

宮津藩知事本荘宗武の三男として生まれる[1][3]1892年(明治25年)7月、子爵伊集院兼寛の養子となり、兼知と改名[1][3][4]。養父の死去に伴い、1898年(明治31年)4月29日に子爵を襲爵した[1][4][5]

1892年、学習院中等科を卒業[4]1896年(明治29年)主猟官に就任[2][4]1904年(明治37年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され[6][7]研究会に所属して活動し[2]、5期在任して1939年(昭和14年)7月9日に退任した[2][4]。その他、臨時治水調査会委員、狩猟調査会委員などを務めた[2]

1939年9月8日に隠居し[1][8]、家督は二男・兼高が継承した[1]

親族

  • 妻:春(養父長女)[1]
  • 二男:兼高(貴族院子爵議員)[1]
  • 二女:富子(細川孝典夫人、離縁)[1]
  • 三女:豊子(早川明石夫人)
  • 五男:兼則(本庄寿巨養子)[1]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l 『平成新修旧華族家系大成 上巻』129-130頁。
  2. ^ a b c d e 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』35頁。
  3. ^ a b c 『大日本華族大鑑』10頁。
  4. ^ a b c d e 『人事興信録 第12版 上』イ50頁。
  5. ^ 『官報』第4447号、明治31年4月30日。
  6. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、13頁。
  7. ^ 『官報』第3332号、明治37年8月8日。
  8. ^ 『官報』第3808号、昭和14年9月13日。

参考文献

  • 筒井住蓮編『大日本華族大鑑』都通信社、1911年。
  • 人事興信所編『人事興信録』第12版 上、1939年。
  • 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』上巻、霞会館、1996年。


日本の爵位
先代
伊集院兼寛
子爵
伊集院(兼寛)家第2代
1898年 - 1939年
次代
伊集院兼高



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