二帝北行とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 二帝北行の意味・解説 

靖康の変

(二帝北行 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/07 10:14 UTC 版)

靖康の変(せいこうのへん)は、1127年北宋)が、女真族(後世の満洲族の前身)を支配層に戴くに敗れて華北を失った事件。靖康は当時の宋の年号である。[1]

靖康の変
現在の河南省の地図における開封

戦争宋金戦争
年月日1125年9月 - 1127年3月
場所:中国、華北
結果の華北領有、北宋の滅亡、南宋の成立
交戦勢力
北宋
指導者・指揮官
欽宗 太宗
粘没喝

北宋政府の燕雲十六州奪還作戦の失敗

元々、中国本土の北宋国は五代十国の時代に国の領土となっていた燕雲十六州を奪還したいと望んでいたが、1004年には奪還に失敗して澶淵の盟を結ばざるを得なくなっており、燕雲十六州は遼の領土となっていた。これは、これまで野蛮人として見下していた騎馬民族による征服王朝が中国本土の一部を120年間占拠し続ける異常事態であり、このため、失地奪還が国是となっていた。[2]遼が衰え、満洲地方で金が起こったため、金国と中国本土の北宋国は共同で両国の間にある遼国(契丹国)を滅ぼさんとした同盟関係(海上の盟)を1012年に締結していた。

「大宋皇帝、書を大金皇帝に致す。承示、書に遠ければ罰を致さん。契丹と当たること来約の如し。己が差す童貫の勒兵相い応じ、彼は此が兵関を過ぎることを得ず,歲幣の数は遼に同じ」
(大意)宋の皇帝が金の皇帝にお伝えします。違約の場合は罰則があります。契丹国(遼国)に共同作戦に攻め込むことを約束しましょう。朕が差し向ける童貫将軍の兵が契丹国に攻め込みます。その軍はお互いの境界の関所から先には進みません。また、遼国が元々貴国に支払っていた朝貢(歲幣)の額は、同額を我が宋国がお支払いします。 — 宋・徽宗皇帝による「海上の盟」の内容、『御批歴代通鑑輯覧』巻八十一

こうして1125年に北宋・金連合軍は遼に攻め込んだものの、金軍は遼の北部、熱河方面から攻め込んで金のほぼ全土を制圧し、天祚帝を捕らえたものの、北宋軍はほとんど戦果を上げることが出来ず、[3]北宋の分担地域まで金軍が制圧し、領土を返すありさまであった。このため、援軍の代金として朝貢額を上乗せして払うと北宋は金に約束した。[4]

違約による靖康二年の北宋滅亡

ところが、金が遼を滅ぼして宋に領土を約束通り割譲したにもかかわらず、約束の歳幣(資金など)を払わなかったため、違約に怒った金軍[5]1126年に宋の首都・開封を攻撃した。1126年の侵攻のときは、北宋側が詫びを入れて朝貢額を更に上乗せすることを約束したものの、巨額の朝貢は払うことが出来ない額であった。債務履行できなかったことに金はいよいよ怒り、翌年1127年4月(宋の靖康二年)に金は大規模な侵攻を行った。開封を陥落させ北宋宮廷の財産をすべて奪い、北宋の皇帝(欽宗)と太上皇(徽宗)の二人も俘虜になった。また、皇族の殆どや宮廷に仕えていた宦官・宮女・職人の類もすべて金に奪われている。これにより北宋は滅亡した。[6]

無能な北宋政権の自滅

北宋は同盟関係にもかかわらず、遼の残党と通謀して金を裏切ろうとしたり、以前金に攻められた時に約束した賠償金を不払いだったりするなど、新興国の金を小馬鹿にした態度を取り続けたために金軍が国都を攻撃したものであった。徽宗もおべっかつかいの近臣にだまされて判断をことごとく誤り、金軍が開封城に迫ってくる段になってようやく「朕は元々馬鹿者で、世襲でなっただけだった。(それなのに)直言を嫌がり、奸臣にだまされて、おべっかばかりを聞いていた。そのため奸臣が跳梁跋扈して賢臣たちを追放し、政治も怠けていた」と反省する始末であった。徽宗は自己批判して勤王の士を募り、退位して息子に譲位したが、民心は北宋を離れており、勤王の士もろくろく集まらぬまま時既に遅く北宋は滅んだのであった。[7]歴史学者の愛宕松男は「他の地方はほとんど被害を受けず、ただ首都だけがこつ然と消えてしまった」「為政者が無能なために打つべき手を打たず、首都を孤立させたまま強敵の攻撃にさらし、自滅したまでである」と厳しく北宋政権の無為無策を批判している。[8]

戦後処理

逆に金軍も中国全土を支配するほどの力量を欠き、統治機構も整わなかったために北宋の高官張邦昌に傀儡政権を組織させて占領地を統治させる有り様であった。[9]なお、皇族の一人(欽宗の弟・康王)が南に逃れて南宋を建国した。[10]

脚注

  1. ^ 愛宕松男『世界の歴史 アジアの征服王朝』の「国際関係の変化と第二次南北朝の展開」の項による。河出文庫2013
  2. ^ 愛宕2013
  3. ^ 徽宗の贅沢三昧の暮らしに疲弊した民衆が、宋の南方で方臘を首領として反乱を起こしたため。方臘は別の国を建国し、宋国の6州とその配下の県城52箇所を次々に落とした。北伐予定だった童貫軍15万は南下して方臘の国に攻め込んだため、北伐軍はほとんど何も出来なかったためである。この頃の北宋軍は極めて弱く、歴史学者余嘉錫の『宋江三十六人考実』によれば宋江の反乱軍すら平定できないほどであり、宋江を降伏させて童貫の配下として方臘対策に充てるありさまであった。方臘を捕らえたのも宋江であったとする説があるが、中国文学者の高島俊男はそれは後世、『水滸伝』に引きづられた史家が誤って記載したものであろうとしている(高島『宋江実録』)。『御批歴代通鑑輯覧』巻八十一によれば「帝は疏(方臘の反乱の報告)を得て、始めて大いに驚き、乃ち北伐の議を罷む」という。徽宗は歳幣を支払うのを嫌がっていたという。
  4. ^ 愛宕2013
  5. ^ 金との交渉にあたった宋の馬拡は「彼既深恨本朝結納張殼,又為契丹舊臣所激,故謀報復,今宜速作備禦」(金国は宋が朝貢しないのをひどく恨んでおり、また憤慨しております。我々は速やかに防御を固めねばなりませぬ)と童貫将軍に伝えたが、将軍は拒絶したと『御批歴代通鑑輯覧』巻八十一にある。愛宕2013は、北宋政府の徽宗蔡京ら上層部が状況を甘く見ていたことを指摘している。
  6. ^ 斯波義信『靖康の変』日本大百科全書(ニッポニカ)、コトバンク。2025年2月16日閲覧
  7. ^ 「帝即命虛中草詔,畧曰:朕以寡昧之質,籍盈成之業,言路壅蔽,靣諛日聞,恩倖持權,貪饕得志,縉紳賢能陷于黨籍,政事興廢」と『御批歴代通鑑輯覧』巻八十一にある。同書によれば、北宋の将軍宋沢が勤王の士を募ったが、兵士が誰もついてこなかったという事件も発生し、徽宗は妖術で敵を倒せると称する郭京なる宗教家にすがる始末であったという。
  8. ^ 愛宕2013
  9. ^ 愛宕2013
  10. ^ 寺田隆信『物語 中国の歴史』P182~P183、中公新書

関連項目

  • 澶淵の盟
  • 海上の盟
  • 水滸後伝 靖康の変を題材にした明の歴史小説。梁山泊の生き残り燕青が連れ去られる徽宗に食物を献上し、「徽宗は優秀な人だったが、近臣にだまされて国を潰してしまった」というくだりがある。
  • 洗衣院 この時拉致された女性たちが入れられたとされる施設。ただし根拠は清の末期に創作された疑いが濃い『靖康稗史』しかなく、この施設が実在したかどうかは定かではない。詳細は当該項目参照。

外部リンク




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「二帝北行」の関連用語

1
2% |||||

二帝北行のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



二帝北行のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの靖康の変 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS