中山養福とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 中山養福の意味・解説 

中山養福

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/10 06:23 UTC 版)

中山 養福(なかやま おさよし、文化5年〈1808年〉 - 嘉永2年〈1849年11月)は、江戸時代後期の絵師通称は忠次、鍮次、忠次郎。号は竹窓、求古斉。

徳島藩の江戸八丁堀屋敷留守居役、中山百助の二男として江戸で生まれる。狩野晴川院養信に学び、徳島藩の絵師となる。文政12年(1829年)の藩の分限帳に「五人十石中山鋳冶」とある。

花鳥画が得意で、天保13年(1842年)筆の「真那鶴図」は徳島市の文化財に指定されている。明治時代の狩野派の大家・橋本雅邦と同門であったが、雅邦は「養福がもし生きていれば自分より上になったであろう」と語っている[要出典]。嘉永2年(1849年)11月、江戸にて没、42歳。

養福の作品は比較的多く残っているが、鶴、虎などの題材で力作が多い。

参考文献

  • 『徳島の研究 近世篇Ⅱ』「阿波の画壇」河野太郎、1982年。



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「中山養福」の関連用語

中山養福のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



中山養福のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの中山養福 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS